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お釈迦様は男女差別はなさっていない~『お経 浄土真宗』(早島鏡正、田中教照)~

「見仏記」シリーズを読んでいるうちに、次第に仏教に興味が出てきました。


とりあえず、偶然家にあったので、この本を手に取った次第です。我が家は浄土真宗ではないので、多分間違って購入したものと思われます。


まずはお経の本とは思えないサイケな表紙に驚いたら、装丁は横尾忠則でした。なるほど。でもちょっと抹香臭さが薄らぎ、手に取りやすくなりますよね。


浄土真宗で重要なお経の原文・読み下し文・現代語訳が載っており、後述のとおり内容的には興味深かったです。ただし「原文に対応する読み下し文、現代語訳などは、できるだけ同じ〔見開き〕ページに入れるよう心がけた」という工夫が、必ずしもうまくいっていません。「やむをえず多少ページが前後するところもある」と断っていますが、読み下し文も現代語訳も、文章の続きが次のページにまたがることが多いので、ちょっと読みにくいです。


でも何はともあれ、代表的なお経の内容が分かったので、読んで良かったと思いました。

以下、備忘録的に心に残った部分です。なお、引用はすべて現代語訳の部分を使用しています。


経典はたて糸のように一貫する基本線なのであって、それに依拠し、それを展開して横糸のように教義がはりめぐらされ論書が作られるのである。

ふむふむ。ちなみに「お経」はお釈迦様が直接説かれたものだけでなく、「弟子たちの説であっても真理にかなったものなら経典」だそうです。


(阿弥陀)如来が法蔵菩薩と名のる求道者であったとき、(中略)世にもまれな誓願を発された。それは五劫の間、思索をこらし、(中略)四十八の本願にまとめたものであった。(「正信念仏偈」(親鸞著)より)

おお、「見仏記」シリーズでも何度か登場している「五劫思惟阿弥陀菩薩」の由来はこれでしたか。


(インドの天親菩薩は)仏となれば、人々を救うために、この世にたちもどり、煩悩の林に遊んで、神通力を現わし、輪廻の園に入って、教化の働きをなす」と説かれる。(正信念仏偈(親鸞著)より)

仏様になっても、そのまま浄土にいっぱなしという訳ではなく、あえて輪廻を繰り返して、人々を救ってくださるということですね。


(源信)和尚は信心の人を二つに分け、専ら他力に帰する信心の深い者と、自力を雑える信心の浅い者とし、また、弥陀の浄土に報土と化土(けど)の別をたて、信心の深い者は真実の報土に生まれ、信心の浅い者は方便の化土に生まれる、と弁別されている。(「正信念仏偈」(親鸞著)より)

浄土にも2種類あるとは知りませんでした。でも阿弥陀様のお力にすがるだけではなく、何か自分でも努力をしようとしてしまうのが人間のような気も。それを「自力を雑える信心の浅い者」と言われると、いささか辛いです。


有無の辺見:有(実在)と無(虚無)にこだわる極端な見方。

現代文明はこれに陥りがちなので、気を付けねばなりませんね。


真実の信心が得られると、浄土に生まれる身と決った仲間に入る。これは次生の成仏が約束された弥勒菩薩と同じ地位であり、いのち終れば、このうえない仏のさとりを得るのである。(「和讃」(親鸞著))

なんと、弥勒菩薩と同じ地位とは!


如来大悲:罪重く障り多きものをこそ救いの目当てとして、逃げるものをも追いかけて浄土に迎えたもう親心。

ありがたいことです。


娑婆国土:われわれの住む世界。釈迦仏の教化区域。娑婆とは(中略)忍耐の意。よって娑婆世界は堪忍土と訳される。苦悩に耐え忍ばねば生きていけない世界という意味。

うーむ、なるほど……。


かの如来の浄土には、地獄・餓鬼・畜生の三悪道の名まえすらない。また、女人の性をうけることも三悪道に堕ちる恐怖もない。(「十二礼」(龍樹著))

「十二礼(じゅうにらい)」とは、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)による、阿弥陀仏の讃歌です。はい、女性として生まれることは、三悪道に堕ちることと同レベルですか、と思っていると、衝撃の事実が明らかになります。


もしも立派な男性や女性たちであって、ほとけたちがほめたたえているところの、阿弥陀仏の名とこの経の名とを聞く者はだれでも、みな、すべてのほとけたちに護念されて、この上ない正しいさとりから退くことがないからである。(「仏説阿弥陀経」(鳩摩羅什訳))

「仏説阿弥陀経」は、お釈迦様自ら説いた経典です。そこでは男性と女性の区別はなされていません。

ということは、龍樹が男女を区別する解釈を加えてしまったのでしょうか。龍樹は「正信念仏偈」によれば、お釈迦様が「有と無の二辺に片寄る見解をうち破り、大乗仏教の究極の教えを説き弘めて、みずから不退転の地位に入り、命終って阿弥陀仏の安楽浄土に生まれるであろう」と予言された、すごい方なのですか。

まぁ一応、禅那崛多(ぜんなくった。中国の北周から隋の時代に来朝して仏典を漢訳したガンダーラ出身の闍那崛多(じゃなくった)のこと?)が翻訳した時に、何か誤訳があった可能性もありますが。

ちなみに鳩摩羅什(クマラジーヴァ)は中央アジア(ウィグル)出身の僧で、インドに行って仏典を持ち帰り、仏典の漢語訳をした人です。禅那崛多より前の時代の人。


更に言うと、唐の時代の善導大師はというと、「正信念仏偈」によれば、

心を静めて修行に励む人や世間的な善行を積む人も、あるいは十悪・五逆の罪を重ねたる悪人も、阿弥陀如来はともに等しく慈悲をたれて、南無阿弥陀仏の名号を因とし、放ちたもう光明を縁として、人びとを浄土に往生せしめたもう。

とおっしゃったそうなので、ここでも男女の別はないようです。


親鸞聖人も確か、往生にあたっての男女の区別はなさっていませんよね。


なのに蓮如と同時代である、高田派の真慧(しんね)上人の言葉である御書では、

たとい五つの大罪、十の悪事を犯し、あるいは仏法をそしり、成仏の可能性すらない悪人や女性であっても、阿弥陀如来がわれらにお約束くだされた本願をたよりとして名号を称えれば、かならず浄土の往生が決定する、と思い定め阿弥陀如来を信じる心がおこれば、その時を往生と承知してよいのであります。

とあり、また女性を悪人と同列にしています。


私の解釈が間違っている可能性も大いにありますが、この問題、突き詰めると根が深そうです。でもとりあえずお釈迦様は、男女差別はなさっていないものと思われます。


見出し画像は、築地本願寺です。


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