【読書】第一次大戦中のカナダの雰囲気~『アンの娘リラ』(モンゴメリ作、松本侑子訳)(その①)~
私は「赤毛のアン」シリーズは、第1巻の『赤毛のアン』を前田三恵子訳で読んだのみで、その後の展開については、ほぼ知りません(ギルバートと結婚したことは知っていますが)。
なのに仕事の都合で、『アンの娘リラ』を読むことになりました。本来、その間の6冊も読むべきなのでしょうが、そんな時間はないので、間を飛ばして読むことにしました。
で、誰の訳で読むべきか考えたのですが、今更村岡花子訳でもないだろうと、新訳の松本侑子訳を選択した次第です。
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読み始めてすぐ、ちょっと後悔しました。
「ある種の厳めしい満足感」って、何? 一応翻訳の勉強をした身としては、こういうこなれていない訳は気になってしまいます。そしてスーザンがブライス夫人(アン)に呼びかける時の「先生奥さん」って、何?
そして次々に人物名が出てくるのには、参りました。上記の通り、これまでの巻をすっ飛ばして読んでいる私が悪いとはいえ、どうやら今巻初登場の人も少なからずいるようですし、登場人物紹介が、ぜひとも欲しいところです。かつその登場人物紹介には、愛称と本名を併記しておいてほしい。
愛称と言えば、リラがマリラの愛称とは! もっとも物語の冒頭のリラは、マリラより『赤毛のアン』時代の母アンを思わせる、大げさな言葉遣いを好む、夢見る夢子ちゃんですが。とはいえ娘時代のマリラのことは分かりませんし、大人になったアンがすっかり落ち着いてしまったことを思うと、リラもいずれ落ち着くんでしょうね。
「日刊エンタープライズ」の「グレン・セント・メアリ通信」が個人情報てんこ盛りなのは、そういう時代だったと言えばそれまでかもしれませんが、ドン引きです。
「そんなことが、あたしらに何の関係があるんだい?」(p.28)状態だったサラエボ事件、そしてそれをきっかけに始まる第一次世界大戦が、リラたちの身近にひたひたと迫ってくる描き方は、見事です。
ちなみにサラエボ事件で殺されたフェルディナント大公について、巻末の「訳者によるノート」で「皇太子夫妻」と書いていますが、誤りです。正確には「皇位継承者夫妻」と言わねばなりません。フェルディナントの妻は身分が低かった(伯爵家の娘)ため、皇太子妃として認められておらず、二人の間の子にはハプスブルク家の相続権は与えない、という条件が付いていたので。
ちなみにこの「訳者によるノート」、訳者にとっては必要だったのかもしれませんが、読者にとっては煩雑で不要ではないかと思われるものが混ざっています。本文を読みつつ、やはり「訳者によるノート」の注があれば読んでしまうわけで、その度に読書が中断される上に本は分厚くなるわけで、もう少し減らしても良かった気がします。
この作品が書かれて約100年過ぎて、「二十一世の文明国家の間」でもまだ戦争があるとは。
こういう風に考える人が大半であれば、フードロスの問題は小さくなるはずなのに。ちなみに私はスーザン派です。
戦争が「罪への罰」という見方には賛成できませんが、それ以上に「人類が支払わねばならぬ代償」という考えには賛同できません。ましてこのセリフを言っているのは牧師であり、彼の息子は志願兵として出征しようとしていることを思うと。リチャード・アッテンボローの『素晴らしき戦争』にも、兵士を祝福する聖職者が出てきますよね。
ブライス家の飼い犬のマンデイは、志願兵として出征してしまった主人を待って、忠犬ハチ公状態になってしまいます。
志願兵と言えば、いくら大英帝国(英連邦)に属するとはいえ、カナダの若者が志願兵として参戦していく描写には驚きました。「大戦初期のカナダの志願兵の六十五%が、英国からカナダに移民して間もない英国生まれの男性だった」(p.541)という事情はあるにせよ。
上がリラの兄のウォルター、下がリラのボーイフレンド(?)のケネスの言葉ですが、あくまでも志願兵の募集のはずなのに、そういう圧力があったのですね。
何らかの形で「自分に関わりがある」と思えば関心が生まれ、知ろうとする力が湧くことを、よく表しています。
いらないようなところにも「訳者によるノート」が付いているのに、肝心なところでついていないこともあります。
ちょっと意味不明なのですが……。
愛国的な詩の暗誦をするリラへの批判ですが、同感です。ウォルターやケネスには出征してほしくないのに、「名もなき馬齢を重ねるよりは、波乱に満ちた一時のある栄光の人生のほうが価値がある、と胸が震えるような烈しさで聴衆に訴えかけるとき、リラの目が、まっすぐ自分を見たと感じて、入隊する新兵は、一人にとどまらなかった」(p.182)ことを、どう考えているのでしょう。
「訳者によるノート」には批判的な私ですが、もちろん役に立つ部分もありました。
大戦中、英国政府は「いつも通りの仕事」という標語を掲げたそうです。「いつもと同じ仕事と家事を営み、戦前と同じ社会機能を維持すること」(p.547)が目的だったそうですが、何となくイギリス人ぽいです。だから「映像の世紀」で、空襲があろうが普通に仕事に行くイギリス人の映像があったのかと、納得がいきました。
大英帝国の一部としての、第一次世界大戦中のカナダの雰囲気が克明に描かれており、いろいろためになりました。
実はこの記事は203ページまでしか読んでいない段階で書いているのですが、まだ全体の3分の1も読んでいない段階で、記事の長さが3000字を超えてしまったので、ここで第1弾の記事とします。
見出し画像は、かなり以前にミスタードーナツでもらった『赤毛のアン』のコースターです。
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