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プリニウスは黄門様~『プリニウス 2巻』(ヤマザキマリ、とり・みき)~

*この記事は全12巻を読んだ上で再読した時の感想です。よってネタバレに相当することも書かれていることを、ご承知おきください。


『プリニウス』の再読、2巻目に突入しました。

↑kindle版


プリニウス様は 頓着されないように見えて意外と几帳面でいらっしゃる
その辺に置いてあるものも いいかげんに積み重ねているようで そうじゃない…
庭も手入れをしていないように見えるでしょうけど…
これがプリニウス様仕様です…

p.5

他人の眼から見ると、単にごちゃごちゃなんだけど、本人はどこに何があるか、ちゃんとわかっているタイプとして、プリニウスは設定されているわけですね。


ふん 連れて歩く用の書記か…

p.14

エウクレス本人は「口頭記述係の一人」(1巻 p.60)と自負しているのに、昔からの書記であるアルテミオスにしてみれば、そんな感じなのですね。でもひょっとしたら、連れて歩いてもらえることへの羨望もあるのかも。何せ4年も外に出ていないので。

(閉じ込め)られているのではありません…
本人の意志でそうしているのです…
アルテミオスはそれくらいプリニウス様の語られる事にとりつかれているのです
私は字が読めませんし書けませんが 知識人達があの方に魅かれるのはわかります

p.18

逆にアルテミオスは、エウクレスのことを羨んでなんていないとも解釈できます。プリニウスが書いたことをまとめることで、アルテミオスには外の世界が見えているし、そうすることで世界を旅しているとも言えるので。


「あんたのオシッコで洗ったら 洗濯物もっとキレイになりそうだ
今度はそっちもたのむよ!」
「僕のオシッコできれいになるかわからないけれど…
うっかりしてました 今度は持ってきます…」

p21

洗濯屋のお姉さん(?)とエウクレスの会話ですが、オシッコで洗濯? あえて言えばアンモニアの力? 血液のシミとかには、効くようですが。


陛下の前に座っているのは呼吸もしない物体ではなく 生きている人間だ
音楽を聞いて心地が良くなれば 眠くなって当然の事……

p.33

ネロがチェトラを演奏した際にあくびをして、激怒されたことへのプリニウスの答えですが、ネロの演奏がうまいことが暗示されているとも言えます。下手な演奏だと落ち着かないから、逆に眠くならないはずなので。


この世界には我々の知らないものが まだたくさん存在します
シキリアのように この世のどんな神々よりも自然が力を持っている土地では それを痛感できます

p.40

1巻の156ページに続き、「自然の方が神より力を持っている」という主張が繰り返されています。


「プリニウス…私の頼みを聞いてくれぬか…
またここへ来て 私に自然や宇宙や生き物の話をしてくれぬか…
人間など しょせん矮小なものだという事を 私に知らしめしてくれぬか…!!
この通りだ…!」
「それはできかねる…
そのかわり私の書物をいつも届けさせましょう」
「書物ではダメなのだ!!
貴様ら知識人は何かと書物で全てが補われると思っているが
私が求めているのはそんな事ではない!!
私が欲しいのは私の為に何かを伝えたいと思う人間の気持ちだ!!
あさましい計算や利潤の下心のない生の言葉が欲しいのだ!!」

p.43~44

ネロとプリニウスの会話です。物語の中だけではなく、もちろん史実として、ネロの破滅は決まっているわけなので、「もしも」と言うことは、あらゆる意味で無意味です。でもあえて、もしプリニウスがネロの願いを受け入れていたら、と考えてしまいます。ネロが破滅しない道も、わずかながらあったかもしれない。とはいえやはり、破滅の時期が多少遅くなるくらいで、破滅は防げなかったかもしれませんね。


トラステヴェレこそが人間の実態というものを目をくらまされずに観察できる場所
ここに暮らしていると崇高と信じられている文明が人間に何をもたらしたかを知る事ができる
水道という文明も便利なだけでなく そんな人間のどん欲さを引き出すひとつのきっかけとなった

p.62

スラム街とも言えるトラステヴェレに住むプリニウスの言葉です。文明がもたらした、良くない面にも目を向けるべきと言っているようです。


この巻ではエウクレスとプラウティナの出会いが描かれていますが、出会った瞬間、互いにひとめぼれしたんですね。


エウクレスはどうしたのです?! 護衛するのはあいつの役目でしょう?!

p.147

自分を訪ねて生きたプリニウスへのフェリクスの言葉ですが、エウクレスが護衛の役割を果たすシーンは、物語を通じてなかったような……。


この巻では、ポッパエアの贅沢やわがままが描かれますが、まだまだ序の口ですよね。ポッパエアのシーンは、読んでいて、もちろん心地よくないわけですが、ふと思ったのは、ポッパエアには悪気は全くなかっただろうなぁということ。少なくともこの作品のポッパエアは、自分は悪いことは何もしていないのに、なぜ民衆に責められねばならないんだろうと思っていた気がする。そんな彼女をネロが愛したこと、そして彼女がネロを愛したことが、ネロの不幸の原因の1つでしょうね。


マリ とり先生が絶対に手を抜かないので、それに負けないようにと、こちらも自然と力が入る。さらにこのマンガは、人物も背景もすべてが”主人公”なので、どのコマも気が抜けない。
とり それは僕も同じで、ヤマザキさんの画が上がってくると、それ以上のものを描かなければいけないと常に思ってやっていますよ。
マリ だから、大変だけど思っていた以上の相乗効果がありますね。もともと私は他人に触発されることをエネルギーにして生きてきたような人間なので、刺激を受けまくりです。

「とりマリ対談(4)」より

お互いが持つイメージも基本、ツーカーで通じるので楽だということが、この対談で明かされます。マリさんが演出家、とりさんが撮影監督と美術監督、そして「ちょっとしたパースの狂いや描写の甘いところを見抜いて、容赦なく指摘」する「作画における”担当編集者”」という役割分担ですが、でも完全に分けすぎてもいないわけで、本当に良いコンビだったのでしょう。


とり これまで人物はヤマザキさんで、僕が背景というのが、大まかな役割分担だったのに、どんどんその役割はシームレスになってきている。(中略)
最終的には、ヤマザキさんのマンガでも、僕のマンガでもなく、「とりマリ」のマンガになるのが一番いい。「とりマリ」という第三の人格が、作者として立ち上がってくるのが理想。

「とりマリ対談(4)」より

その理想は、最初から最後まで実現していたように思います。二人の画が合成されている違和感を感じたことはなかったので。


とり ここではじっくり画を「読んで」もらいたいので、あえてセリフを省きました。さらに家の中のシーンでは、いろいろ細かい遊びもやっていますので、じっくり再見してください(笑)。

「とりマリ対談(4)」より

エウクレスが初めてプリニウスの家を訪れるシーンについての言葉ですが、気付いていない「遊び」が多そうな気がして、もったいなく感じます。


マリ 『プリニウス』では、これまでとは違うネロ像を描いてみたいなと。いろいろな資料を読み込むと、彼が実は芸術肌で文人気質の人間だというのが見えてきます。ギリシア文化に憧れ、当時珍しかった髭を伸ばし、竪琴を弾き、詩作も嗜んだ。その点、『テルマエ・ロマエ』でも描いた五賢帝の一人、ハドリアヌスに近かったかもしれない。

「とりマリ対談(4)」より

キリスト教徒の大弾圧を行ったから、キリスト教的史観では必要以上に暴君と見なされてしまうけど、それさえ行っていなければ……。うーん、でも他にもいろいろ愚行を行っているしなぁ。


とり プリニウスとネロを、黄門様つまり徳川光圀と五代将軍の徳川綱吉に置き換えることもできる。このマンガでは、独裁者のネロに対して唯一ノーと言える、ネロも一目置く存在としてプリニウスを描いています。光圀もまた綱吉に意見ができた数少ない存在だったそうです。綱吉が発令した「生類憐みの令」に抗議して、犬の毛皮を贈ったという逸話もあるぐらい。
さらに光圀は、武家でありながら文人で歴史書『大日本史』を編纂したことでも知られ、その点も軍職にも就きながら『博物誌』を編纂したプリニウスとも重なるわけです。

「とりマリ対談(4)」より

プリニウス、フェリクス、エウクレスを黄門様御一行になぞらえた後の言葉ですが、ちょっと面白いです。綱吉が近年、見直されていることを踏まえると、余計に。


見出し画像は四半世紀前(!)に撮った、ローマ市内を流れるテヴェレ川です。


↑コミック(紙)版



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