【読書】プリニウスは黄門様~『プリニウス 2巻』(ヤマザキマリ、とり・みき)~
*この記事は全12巻を読んだ上で再読した時の感想です。よってネタバレに相当することも書かれていることを、ご承知おきください。
『プリニウス』の再読、2巻目に突入しました。
↑kindle版
他人の眼から見ると、単にごちゃごちゃなんだけど、本人はどこに何があるか、ちゃんとわかっているタイプとして、プリニウスは設定されているわけですね。
エウクレス本人は「口頭記述係の一人」(1巻 p.60)と自負しているのに、昔からの書記であるアルテミオスにしてみれば、そんな感じなのですね。でもひょっとしたら、連れて歩いてもらえることへの羨望もあるのかも。何せ4年も外に出ていないので。
逆にアルテミオスは、エウクレスのことを羨んでなんていないとも解釈できます。プリニウスが書いたことをまとめることで、アルテミオスには外の世界が見えているし、そうすることで世界を旅しているとも言えるので。
洗濯屋のお姉さん(?)とエウクレスの会話ですが、オシッコで洗濯? あえて言えばアンモニアの力? 血液のシミとかには、効くようですが。
ネロがチェトラを演奏した際にあくびをして、激怒されたことへのプリニウスの答えですが、ネロの演奏がうまいことが暗示されているとも言えます。下手な演奏だと落ち着かないから、逆に眠くならないはずなので。
1巻の156ページに続き、「自然の方が神より力を持っている」という主張が繰り返されています。
ネロとプリニウスの会話です。物語の中だけではなく、もちろん史実として、ネロの破滅は決まっているわけなので、「もしも」と言うことは、あらゆる意味で無意味です。でもあえて、もしプリニウスがネロの願いを受け入れていたら、と考えてしまいます。ネロが破滅しない道も、わずかながらあったかもしれない。とはいえやはり、破滅の時期が多少遅くなるくらいで、破滅は防げなかったかもしれませんね。
スラム街とも言えるトラステヴェレに住むプリニウスの言葉です。文明がもたらした、良くない面にも目を向けるべきと言っているようです。
この巻ではエウクレスとプラウティナの出会いが描かれていますが、出会った瞬間、互いにひとめぼれしたんですね。
自分を訪ねて生きたプリニウスへのフェリクスの言葉ですが、エウクレスが護衛の役割を果たすシーンは、物語を通じてなかったような……。
この巻では、ポッパエアの贅沢やわがままが描かれますが、まだまだ序の口ですよね。ポッパエアのシーンは、読んでいて、もちろん心地よくないわけですが、ふと思ったのは、ポッパエアには悪気は全くなかっただろうなぁということ。少なくともこの作品のポッパエアは、自分は悪いことは何もしていないのに、なぜ民衆に責められねばならないんだろうと思っていた気がする。そんな彼女をネロが愛したこと、そして彼女がネロを愛したことが、ネロの不幸の原因の1つでしょうね。
お互いが持つイメージも基本、ツーカーで通じるので楽だということが、この対談で明かされます。マリさんが演出家、とりさんが撮影監督と美術監督、そして「ちょっとしたパースの狂いや描写の甘いところを見抜いて、容赦なく指摘」する「作画における”担当編集者”」という役割分担ですが、でも完全に分けすぎてもいないわけで、本当に良いコンビだったのでしょう。
その理想は、最初から最後まで実現していたように思います。二人の画が合成されている違和感を感じたことはなかったので。
エウクレスが初めてプリニウスの家を訪れるシーンについての言葉ですが、気付いていない「遊び」が多そうな気がして、もったいなく感じます。
キリスト教徒の大弾圧を行ったから、キリスト教的史観では必要以上に暴君と見なされてしまうけど、それさえ行っていなければ……。うーん、でも他にもいろいろ愚行を行っているしなぁ。
プリニウス、フェリクス、エウクレスを黄門様御一行になぞらえた後の言葉ですが、ちょっと面白いです。綱吉が近年、見直されていることを踏まえると、余計に。
見出し画像は四半世紀前(!)に撮った、ローマ市内を流れるテヴェレ川です。
↑コミック(紙)版
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