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動画視聴とわかったつもり

日本語教師養成講座では、あるテーマが終わるごとに小テストとかをやっていたりしませんか?たまにですが、いつもはほぼ満点の人が急に点数が下がったりします。これはいったいなぜでしょうか。

出席簿を見返すと

よく見ると、ある箇所だけ間違いが非常に多いことに気づきます。そこで出席簿を見返して、その内容を扱った日に授業に来ていたかを確かめてみます。すると、だいたいその日に欠席をしていることが分かります。根拠としては不十分ですが、動画視聴だけではやはり十分ではないのかと思います。

なぜ動画を見るだけでは足りないのか?

それは一言でいうと、「わかったつもり」で停滞してしまうからではないでしょうか。実は、講師が説明している内容そのものは、教科書を読んだ方が、落ち着いて動画を見た方が、よっぽど分かりやすいかもしれません(私だけかもしれないけれど…)。

でも、
・○○とありますが、××の場合はどうでしょうか?
・○○と××は何が違うでしょうか?
・○○という経験はありますか?
など、とにかくたくさんの問いかけをするようにしています。それはとりもなおさず、「わかったつもり」を崩すためです。

一般的に、解説の動画でもそういったものはありますが、比較的すぐに講師が答えを言ってしまうので、他の受講生の意見を聞いたり、それに対して講師がコメントしたりという「交渉」はないわけです。だから、なんとなくわかったの状態でとどまってそれ以上先に薦めていないのではと思います。

授業って何のためにやるんだろう。

たまたまある2つのニュースを見ました。

直接関係はないようで、実は教室で学ぶとはどういうことかに密接に関係した話題だと思います。私が思うに教室で学ぶことは、講師が言ったことを一言一句漏らさず頭に入れるなんてものではないと思います。講師の話を聞き、他の受講生の話を聞き、自分の学んだことや経験に思いめぐらせながら、咀嚼をしていく場にほかならないのではないでしょうか。そういう意味で、安易に学び手のデータを集め管理しようとすることも、なんでも動画にして見せておけばよいと思うのも、学ぶことを個人的な活動をみなし、その考え方は他者とともに学ぶことの価値をないがしろにするものです。このことは、日本語教育の、日本語教師の在り方の方向性とは相反するものだと思います。