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ファッションみたいに禁欲する人【掌編】

禁欲とは、自分の中にある肉欲との絶え間ない戦いの別名だ。
一方で、僕の友達で、そんな禁欲をあまりにも軽やかに、涼しい顔でしている奴がいた。
彼は、まるでファッションみたいに禁欲していた。
僕には、彼のその生活が、なんとも美しく見えた。

ちなみに彼は、クリスチャンだった。

僕の友達に、おじいちゃんの代から三代クリスチャンである友達がいた。彼も勿論、自分自身をクリスチャンだと自認している。日本では、少し珍しいそんな家族ともいえる。ただ僕がよく知らないだけかもしれないが。

彼は日曜日の午前中は教会に行き、午後は教会活動の一環として奉仕活動をしている。活動内容は、基本的にゴミ拾いだそうだ。
長期休暇になると、その範囲を広げて海外に奉仕活動に出かけている。
彼が言うには、半分は旅行みたいなものだそうだ。奉仕活動なんて偽善者の行いだなんて言う人もいるけど、あそこまで日常的に繰り返している偽善なら、むしろ立派だと褒めてあげるべきだと思う。

彼の親は、お酒もたばこもしないし、もちろんパチンコも競馬もしない。
彼も同じように、お酒もたばこもしないし、男なら誰しもがするようなあんなことやこんなことを見たりしたり、やったりしない。
・・・僕のことはこの際、気にしないでもらいたい。

とりあえず、僕から見たら、彼の生活はどこか禁欲的に見える。
普通に社会で生きていたら、飲んで食って、遊んで息抜きするうようなことを、彼は一切せずにニコニコとゴミ拾いなんかしている。

もし僕が、そんな生活を1カ月だけでもしろって言われても、うまくできる自信がない。1週間続くかも怪しいところだ。想像するだけで、我慢、我慢、我慢の日々となりそうだ。まさに、修道生活そのものではないか。
肉欲が僕の弱い心の首根っこをひっつかんでぐワングワンと揺れ動かすのを、どうやって耐え続けろというのか。

だけど、クリスチャンのその友達は、いとも簡単に、なんてことなく、まさに「軽やかに」禁欲をやり遂げている。髪を刈りあげて、山にこもり、滝に打たれるなんてことをせずに、日常の中でこともなにげに禁欲しているのだ。

「君がそうやって、禁欲できるのはキリスト教の信仰のおかげなの?」
と僕は一度聞いてみたことがある。
「いや、どうだろう。わからないな。家族とか、教会の友達とか、あまりそういうのに関心ないからね。僕にとってはそれが自然なんだよ」
と彼は事も何気にそう答えた。
「じゃあ、あまり信仰は関係ないの?ほら、聖書を読んだり、祈ったりすると、そういった感情や欲望がするする消えてしまうとかさ」
「ははは、どうだろ。そんな気もするし、そうでもない気もする。ただそうやって何となく生きただけな気もするけどね、慣性の法則みたいにさ。今さら生き方を変える方が大変だし、酒、たばこに博打にお金を使わないことは健康にもお財布にもいいしなんの損もないし、別に苦には感じないよ」

もはや、禁欲しているという意識もないのかもしれない。
ただ、それが彼のこれまでの生き方であって、ひとつのファッションなのだ。

「君は、ファッションのように禁欲する奴だね。」
「ファッション?言われてみると、確かにそうかも。ファッションみたいに十字架を首にぶら下げて、ファッションみたいにクリスチャンと名乗っているけど、僕はただの一般ピープルだよ。正直、教会以外で聖書を読んだりもしないし」
彼の言葉は軽やかで、彼のくるぶしを引っ張る情欲は無いように見えた。

いや、そんなことはありえないはずだ。どこかで、彼でも必ず「はけ口」を見つけて、何かしらやっているはずだ。例えば、理科室の化学薬品を持ち出して危ない薬を作ったり、ツイッターの裏垢で罵詈雑言を散らかしまわったりといった、そんなことだ。
僕がそう信じたいのは、僕の心があまりにも自然にねじ曲がっているからなのだろうか。

ただ何となく、彼のような生活が実在するのなら、それはそれで美しいように僕には思えた。
不信感の塊のような僕だけれど、みんなが平和な日常をへんな誘惑に惑わされることなくまっすぐに生きれたらいいとは思っているのだ。

そう、ファッションみたいに軽やかに。


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