見出し画像

パン屋のピーター、鏡を見る。【掌編】

パン屋のピーターは疑り深い男だった。
それは決して、彼の性格がねじ曲がっているとか、そううことではない。彼はただ、自分の感覚に正直であったのだ。

パン屋のピーターは、自分が見て感じるものと、周りの人々の言動にズレが生じると、すぐに疑いを抱いた。そして、いつも人の意見よりも自分の感覚を信頼した。

例えば、ピーターは頑固ではあるがハンサムだとよく言われた。
しかし、ピーター自身はそう思わなかった。
どんなに鏡をみても、いっこうに自分がハンサムだとピーターには思われなかったからだ。

みんなに見えている自分と、鏡に映った自分は違って見えているのだろうか。そうでないと、この誤差は説明できないのではないか。

それかみんな嘘つきなのだ。みんなで私を馬鹿にしているのだ。鏡に映るこの男をハンサムだというなんていえるはずがないではないか。

ピーターは、怒りに震えた。

パン屋のピーターは人を避けるようになった。彼には、誰もが信じがたい人のように思えたからだ。

ピーターは街のハズレにあるパン屋で、黙々とパンを焼いた。彼のパン作りの腕は確かで、それは彼自身も認めるところであった。ピーターは自分が焼いたパンの匂い、味にいくぶん満足していたからだ。彼は自分の感覚に正直なのだ。

彼は朝から晩まで働いた。彼は人嫌いで有名ではあったが、それよりも彼のつくるパンの匂いが街の人々を惹きつけた。彼は人を避けたが、人々は彼のパンを求めにやってきた。ピーターのパン屋はいつも繁盛していた。とても、とても、とても。

店が繁盛していくごとに、ピーターの作業は日に日に増えていき、彼一人だと店が回らないようになってきた。彼はお手伝いを必要としていた。しかし、彼は人を避けていたので、なんとか一人で多くの作業をこなそうとして、また朝から晩まで働いた。文字通り、朝から晩まで。

そして、その結果、彼は倒れてしまった。

過労であった。



ピーターのそのような姿を見かねて、お手伝いにやってきたのが幼なじみのマリーだった。彼女はピーターの師匠の娘さんでもあった。

ピーターは迷ったが、マリーがお手伝いをすることをしぶしぶながら認めた。ピーターも自分一人だと、どうも店が回らないと痛感していたし、知らない人よりもいくぶん知っている人に手伝ってもらえる方が、彼にとってまだ安心だったからだ。

それでも結局、ピーターが朝から晩まで働くことに変わりはなかった。パン屋の人気がとどまることを知らなかったのだ。お手伝いのマリーも、彼の傍で朝から晩まで働いた。それでもマリーは一言も文句を言わなかった。

マリーのパン作りの腕もなかなかのものであった。それはピーターも認めるところであった。そして、マリーは魅力的な女性でもあった。それもピーターが認めるところであった。

しかしある日、マリーが倒れてしまった。働きすぎたのだ。ピーターは少しの間、店を閉めることにした。

「マリーは、働きすぎなんだよ。朝から晩まで、よくパンを作っていられるもんだ。」
ピーターは、病院のベッドに横たわるマリーにそう言った。

「何言ってんのよ、あんただって似たようなもんじゃない。あんたがまた倒れるのだって、時間の問題よ。」
マリーは表情に疲れを見せているものの、その顔は優しく微笑んでいた。

「私がマリーと似たようなものだって?私は君の働きに甚だ感心してしまってるんだよ。それはね、君が私よりも馬鹿みたいに一生懸命に働いてると、正直にそう感じているからなんだよ。」
ピーターの言葉にマリーはカラカラと笑った。

「ピーター、あんたは自分があまりちゃんと見えていないようね。私たちの働く時間なんてどんぐりの背比べみたいなものよ。だって、一緒に朝から晩まで、ただ黙々とパンを作り続けてきたじゃない。確かにちょっと働きすぎちゃったかもしれないけど、それはあんたもおなじことよ。」

「そうかな。私にはそう思えないんだけど。」

「まったく、ピーターは頑固よね。わたしはあんたの鏡みたいなものよ。つまりね、あんたの目に映る私の働きは、そのままあんたの働きみたいなものなのよ。」
マリーは、呆れたように首を振った。

ピーターは天井を黙って見上げ、お店でのマリーの働きをひとつひとつ思い起こしていった。パンだねをこね、パンを焼く彼女の姿。
常連客とおしゃべりをする彼女の笑い声。
お店の掃除や道具の整理をする彼女のほっそりとした手。
ピーターには、そのすべてが愛おしく輝いて見えた。

「マリー、君は美しいパン職人だ。」

「・・・それがあんたの姿なのよ。」

マリーは照れを隠すように笑った。
彼女のその微笑みは、顔を赤らめるピーターをしっかりと映し出していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?