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山に登りたい。

山に登りたい」、と最近僕は思っている。
20数年を生きてきた僕の人生において、これは大きな事件だ。

*

僕は基本的に、「疲れる」ことが嫌いだ。
なんだかんだスポーツは好きで中学、高校の時は野球部だったし、
大学にいくとサッカーばかりやっていた。

それでも、「疲れる」ということが嫌いだった。
筋トレ、ランニングなどなど、自分のパフォーマンスを上げるものであるとは知りつつも、敬遠し続けた。なぜなら、それは「疲れる」からだ。
お陰でか、学生時代は野球部だったといっても信じてもらえないほどに、僕はやせ細っている。筋肉が無いのだ。

きっと、僕がスポーツに求めていたのは何か他のことだったのだろう。
球技が好きなのも、そういうことだ。身体能力を高めたいとか、そういうのではないのだ。

韓国に留学に行ったとき、なぜかよく山登りに連れていかれた。
僕の所属していたサークルでは、季節の節目に山登りに行くのが恒例だったのだ。僕は、この山登りがとてもとても嫌いだった。
なぜなら、それは「疲れる」からだ。とても、無意味に。

人生で、自分が「疲れる」と感じることをこれでもかと避けてきた。
避けられないのなら、楽しめ」という訓戒が、韓国の海兵隊で語られているそうだが、僕から言わせると「楽しめそうになかったら、避けろ」ということになる。
僕にとって、「疲れる」とは身体的疲労というよりも、どちらかというと「楽しめない」ことからくる精神的疲労なのだと思う

*

しかし、この春、僕は是非とも山に登りたい、そのように思っている。
僕の中で、山登りは大学生時代の苦い思い出であり、嫌悪の対象であった。

「わざわざ苦労して山に登ったと思ったら、写真を撮って、またすぐ下山する。一体、何がしたいんだ。」

というのが、僕の一貫した感想だった。
確かに頂上からの景色はなんとも美しい。でも、その景色を見るためならケーブルカーを積極的に利用すればよくて、わざわざ登らなくてもいいと思っていた。

しかし、この春、僕は是非とも山に登りたい、そのように思っている。
何度も書くが、20数年を生きてきた僕の人生において、これは大きな事件なのだ。

*

この心境の変化には、様々な要素が複合的に合わさっている。
大きく3つに分けると、以下のようになる。


1.写真撮影にハマった。

大学を卒業し、日本の大学院に進学した。
進学先が、筑波大学という森の中に広大な生活圏を形成している大学で、ある意味でキャンパス内(またはその周辺)で生活のすべてを完結できてしまう環境だった。
そのお陰といっては何だが、外部との接触が極端に減ってしまった。東京は遠いし、韓国はもっと遠い。僕がもともと人見知りであることも手伝って、せっかく日本に帰ってきたのに、韓国での留学生生活の時よりも付き合う人が減ってしまった。

日本での院生生活は、僕に新たな趣味を持つことを求めていた。
それも一人ですべて完結できるものだ。僕にとってのそれが、写真であった。

僕は、中古でミラーレスカメラを購入し、散歩しながら写真を撮ることが日課となった。

2.福岡で見た、1億ドルの夜景。

2月に福岡に旅行しに行ったときのことだ。
北九州に、皿倉山という夜景がやけにきれいな山にいった。
だれがどう計算したのか、それは「一億ドルの夜景」と言われていた。

もちろん、皿倉山の頂上までケーブルカーでいった。
というよりも、ケーブルカーでしか頂上にたどり着けないようになっていたのだ。
頂上からの夜景はなんとも美しく輝いていた。高校の修学旅行で長崎にいった時にも、きれいな夜景に度肝を抜かれたが、皿倉山からの夜景も負けず劣らず(というよりもこっちの方が・・・)凄かった。
「すげーキレイ」と連呼しながら、周囲に自身の語彙力の少なさを露呈しつつも、それ以上何を言えばいいのかわからなかった。

山頂から撮った写真は、ただそれだけでカメラの中で輝いて見えた。
自然と、僕の中で「山からの風景をもっと撮りたい」と思うようなった。

「どこか、ケーブルカーで頂上までいけて、景色がバリ凄い山はないかしらん。」

今思うと、この時からすでに、心が山へと向かいだしていたのだ。

3.ランニングにハマってしまった。

ランニングとは、僕の中でただ「疲れる」だけの原始的で単調な反復作業であった。
高校の野球部時代、冬メニューでよく走らされた。
そして、当然のことながらトレーニングとして走るのだから、とてもきつかった。
僕にとって、「ランニング」とはそういった類のことであった。

しかし、僕はある一冊を手に取ることで、「走ってみようかしらん」と思うようになった。
その本とは、村上春樹のエッセイ集『走ることについて語るときに僕の語ること』であった。その時期、村上春樹の作品を没頭して読んでいて、短編、長編、エッセイといろいろと手を伸ばしているうちに偶然出会った本だった。
そこでは、村上春樹の職業作家生活におけるランニングの意味が語られていた。

「基礎体力」の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ(少なくともやらないよりはやった方がずっといい)と信じている。そして、ずいぶん平凡な見解ではあるけど、よく言われるように、やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。
――
でも「苦しい」というのは、こういうスポーツにとっては前提条件みたいなものである。(中略)苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』より

端的にいってしまうと、僕は村上春樹の言葉にインスパイアされた。
影響を受けやすいタイプなのだ。

僕は、2月から本格的に走るのを始めた。そして1カ月間、ほぼ毎日3㎞走ってみた。そして、3月になり5~6㎞を走るようになっている。

ランニングをはじめてみて、まず驚いたのは「走ることは気持ちいい」ということだ。そう、ランニング、それは快感なのだ

部活では、心肺機能をあげるため、もっと速く動けるようになるために、ひたすら疲れるトレーニングが求められた。
しかし、自分だけで完結するランニングにおいて、走る距離もペースも自由だ
そして、とてもゆっくりと15~30分間走るだけでも、かなり気分がよくなった。

マラソンのタイムに欲が出てきたら、きっと自分を追い込むトレーニングをすることにもなるだろうけど、今のところそんな欲望はこれっぽっちもない。

ランニングは一人で完結する、僕の新しい趣味に加えられた。
そして、この新しい趣味を獲得が、「山登り」に対する僕の否定的な態度が大きく変化する大きなピースとなったと言える。

ランニングが気持ちいいなら、山登りだって気持ちいいんじゃないか

この時、「きれいな風景写真を撮りたい」という心と、「ランニング的快感」を求める僕の身体的欲求が合わさりながら、山登りという行為がその全てを充足することができることに気付いたのだ。

最後に

ということで、僕はこの春、是非とも山に登りたい、そのように思うようになった。そして、幸運にも筑波には、筑波山という日本有数の名山がある。

何かをやりたいと思った時にそれがすぐできる環境にいられること
それは幸せの条件の一つだと思う。

とりあえず、僕は近いうちに筑波山に登ることにした。
周りから見ると、とても些細なことかもしれないが、20数年を生きてきた僕の人生において、やはりこれは大きな事件なのだ。

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