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【カラオケで出会う#1】ゆず:栄光の架橋

いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
だからもう迷わずに進めばいい
栄光の架け橋へと…

「栄光の架け橋」作詞・作曲:北川悠仁

カラオケ大好き歌太郎(うたたろう)は、好きが高じてカラオケでバイトをしている。最寄り駅の北口前にある円状のバス乗り場を脇にそれたところに居酒屋が並んだ通りがあって、歌太郎が勤めているカラオケはその通りを5分ごど歩いた先にあった。歌太郎がそこでバイトをはじめてから早半年が過ぎようとしていた。

「いらっしゃいませ」

一人のご老人が来店された。時間は昼間の3時。ご老人は背丈は高くなかったが、薄いブラウンのセットアップにパリッとした白いシャツを着ていた。近くで見ると、ジャケットに年季を感じはしたものの、よく手入れが行き届いていることがわかった。ご老人は頭にのせたハットを右手に取り、胸の辺りにかざした。

「ごきげんよう。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいかな? …ありがとう。あのう、アテネオリンピックで主題歌だった曲名ってなんだったかな。ほら、爽やかな青年の二人組が一生懸命にピーヒャラ歌っているやつだよ」

ピーヒャラ歌っている? その点に少し引っかかったが、歌太郎には思い当たる曲があった。

「ゆずの『栄光の架け橋』ですか?」
「ああ、そうだ、『栄光の架け橋』だった」

ご老人は何か、懐かしい思い出を味わうに目を細めた。

「それではその曲は、このお店にも置いてあるのかい?」
「栄光の架け橋が置いてあるかどうかですか?」と歌太郎が聞くと、ご老人はゆっくりと頷いた。
「そうですね、はい、置いてあります。リモコンで番号を入れていただいたら、お歌いいただけますよ」
「そうか、じゃあ、せっかくなので歌っていこうかな。三十分だけでいいんだ。ああ、1時間からしかだめなのかい。それなら1時間でいいよ。え、ダムかジョイサウンド? よくわからないな。まあ、ジョイサウンドの方が楽しそうだから、そっちでよろしく頼みますよ。ええ、何回か孫に連れられて来たことはあるんだ。なんとか自分で曲をいれられると思うよ。ええ、わからないことがあったらお兄さんにお伺いにいきます。ありがとう」

ご老人は番号札を受け取って、カウンターに比較的近い部屋に入った。歌太郎はそれとなくその様子を眺めた。

ご老人の部屋はしばらく静かなままであった。すぐにでも、ご老人が部屋の連絡電話を通して質問をするのではないかと思ったが、15分が経ってもカウンターの電話は鳴らなかった。歌太郎は様子を見に行こうかとも思ったが、余計なお世話かと思い直しカウンター裏にある厨房の整理をした。

…プルルルルルル

電車に忘れ物をしたことを思い出したかのように、カウンターの電話が鳴った。歌太郎は慌てて厨房から飛び出し、受話器をとった。彼は電話対応に対して、まだ若干のやりにくさというか、苦手意識があった。

「ああ、お兄さんかい」

それはあのご老人の声であった。どうやらリモコンの使いからがわからないとのことであった。
歌太郎はご老人の部屋に行き、曲の入れ方を説明した。

「これで曲の予約は完了です」

部屋に備え付けられた画面の映像が変わり、「栄光の架橋」の前奏が始まった。
ご老人はマイクを持ち歌い始めた。

「20歳で福岡から上京して早50年。本日をもって、私は70歳となりました。たった一人のせがれも、40代のいい年になってだいぶ頭も薄くなっております。孫は3人いて、どれもかわいい姫君たちですわ。私は上京以来、地元にまったくもって帰らなかったので、今では博多弁よりも標準語の方が板についてしまっています。それでも不思議なもので、《上京した日》、《婆さんと出会った日》、《結婚した日》、《せがれが生まれた日》、《初めて孫を胸に抱いた日》といった思い出が、どれも昨日のことのようにも感じるんですよ。時間ってものは、いや記憶ってものは、多次元的に伸び縮みしているようですね。昨日の昼飯なんかよりも、そういった思い出の方がとても近く感じるんですわ」

ご老人は栄光の架橋の伴奏を背景に、画面に対してまっすぐに語り続ける。歌太郎も画面を見つめながら、その歌声に耳を傾けた。ご老人が彼がそこにいることを求めているようでもあったし、なぜか歌太郎もそれを聞いていたいと思った。

「ところがね、去年の今頃だったね、婆さんが突然、あの世に行ってしまった。数えてみれば、私達は生涯の半数以上を一緒に過ごしていたんだ。婆さんには苦労をかけてばかりだったし、優しい言葉もついぞ言いそびれてしまった。私は大酒飲みで腎臓がすっかり参っているし、タバコだって未だにやめられない。競馬には負けにいっているようなものだったし、自分の稼ぎだといって浪費ばかりしてきた。お前には楽な思いをさせるよりも、文句や愚痴を上塗りした言葉ばかりを聞かせてしまっていたんじゃないかな。私は、良い夫じゃなかったと思う。今になって、すまない気持ちでいっぱいだね。ただね、私は女遊びだけはしなかったよ。こればっかりは、本当なんだ。酒の飲みすぎで朝帰りしたことはあっても、あんた以外の女を抱いて帰ったことは一度たりともなかったんだ。とはいっても、かわいいお姉さんのいるお店で飲んだことはあったよ。仕事の付き合いで、仕方なく。でも、それはあくまで仕事の延長線上だったわけで、せがれや孫たちに顔向けできないようなことはまったくしていない。私はね、婆さんしか知らなかったんだ。あの世からなら、はっきりわかるんじゃないかな。つまり、ここからじゃ見えない世界にいったんだから、ここでは見えないものも、婆さんは見えるようになったんじゃないのかね」

曲はついに、クライマックスへと向かう。

「私はね、とても弱い人間なんだよ。なんて言うのかな、生きる意思が弱いのかもしれない。そのおかげで変な誘惑に惹かれることもなかったが、その反面、生きるということに張り合いを感じることもあまりなかった。日差しが強くなるほどに私の影は薄くなるようだったし、夜が深まるごとに私という存在がその暗闇に飲み込まれてしまいそうであった。こんな人生もう終わりにしようって、何度も思ったよ。でも、そんな時に、私は職場で婆さん、あんたに出会った。今思えば、一目惚れだったと思う——なんだかんだはぐらかしてきたけどね。私らはよく散歩に出かけたね。早朝の道も歩いたし、山道も、観光地も、コンビニからの帰り道も、何かと一緒に歩いてきた。婆さんの横を歩いているとね、私の耳には婆さんの足音がとてもよく聞こえたんだ。それがね、不思議と私の存在証明をしてくれているような気がしてならんかった。婆さんがいる。それが私を支えていたんだ。いつしか、せがれが、孫の存在が、新しい私の意味となってくれたよ。でもね、婆さんがいなくなってから、私はだいぶ寂れてしまったんだ。この1年、私は婆さんの影を、その足音を、どうしようもなく追いかけ続けてきたんだ。その挙句の果てに、今日はカラオケに一人で来てしまったよ」

栄光の架橋はすでに終わっていた。ご老人はマイクを机に置き、椅子に腰掛けた。

「この曲はね、婆さんが好きな曲だったんだ」ご老人はそう言って、笑った。歌太郎には、ご老人の歌声が誰かに向けた別れの響きを含んでいたように思えた。

「お上手ですね」
「いやあ、それほどでも」

ご老人はカウンターで支払いを済ませ、自動ドアの前に立った。外はまだ明るい。ご老人は光の中に、ゆっくりと帰っていった。

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