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しぼりますか

まだいけるじゃん

ある企業で発想の研修を行った際「スプーンの使い途」を5分間考えてもらった。

すると、参加者のほとんどが「視力検査の道具」「武器」「楽器」「金槌替わり」「千枚通し」のうちどれかを書いていた。間違いではない。だが、それはいわゆるベタな思いつきにすぎない。

ほかにも「象用耳かき」「痩せて見える手鏡」「道標」「やすり」「蚊たたき」「かんざし」などなど、時間をかければ、数限りなく出てくると思う。

問題が何であろうと、すぐに思いつくものは、他の誰もが考えつくものでありアイデアとは呼べない。スプーンの新しい使い途を考え出すには、ひたすら数をひねり出す必要がある。オリジナリティがあればあるほど、潜在的なレベルも高まる。

企画を考える際、ひらめいたアイデアに「これは新しい!」とテンションが上がることがある。しかし、もう一人の自分が淡々と言って聞かせる。

「思いついたのは、お前だけのはずはない。すでに思いついている人もいるだろうし、今この瞬間に思いついた人が、世界にあと3人はいる。お前は何かの電波をキャッチしただけだ。」と、水を浴びせる。

勝負はここからだ。さらに練って突き詰めるか、すぐに動いて形にするか、思いついた瞬間は、決勝点でなく単なるスタートにすぎない。

かつて、ある新番組の立ち上げの際、プロデューサーから番組タイトルを考えてくれとの依頼を受けた。番組タイトルという「顔」から、番組内のコーナーやちょっとしたギミックといった「手足」まで、ネーミングは日常業務なので、考えることそのものは苦ではない。

ネーミングについて、自分がとっているプロセスを言ってしまうと「お題」に対して、思いつくまま一気に30~50くらい書き綴る。もう湧いてこないなぁと思ったら小休止。あらためて見返すこともあるが、その中に「答え」はないと考える。

これを自分では「発想のデトックス(毒出し)」と呼んでいて、最初に浮かんでくる、湧いてくるアイデアは、他の誰でも思いつくレベルだと割り切って、情け容赦なく捨てる。

勝負はそこから。いわゆる「ベタ」を出し切ってからだ。ここからは少々苦しいこともある。

対象概念を正面、真横、上下斜めといった外側から見るのは当然。顕微鏡で覗いたら?ちょっと下がってみたら?心の目で見たら?F1マシンに乗って通過の瞬間に見たら?ロケットで月までいってそこから望遠鏡を覗いて見たら?いっそ異次元に行ってこっちの世界を見たら?(いったことないけど)くらいのつもりでアプローチする。

「もう出ない」と思ったチューブの歯磨き粉を、諦めず伸ばしてみてから、もう一度くるくる絞ってみるとちょっと出てくる… あの感じを繰り返す。

件の番組タイトル案。200個出したが、その中に答えはなかった。プロデューサーにピンとくるものがなかったのだが、そのあと雑談しているとき、ふいに口をついて出たフレーズがタイトルに決まった。思い返すと、自分がやっていたのは、まだ毒出しレベルだった。

すべてのタイトルが、そのようなプロセスを経ているか、わからない。数個目で決まることもあると思う。ただ、世の中で私たちが目にするいろんなネーミングは無数の屍の上にちょっとだけ見えている一角であることは間違いない。

「発見は、ほかのみんなと同じものを見て、
             違うふうに考えることによって生まれる」
      アルベルト・セント・ジェルジ・フォン・ナギラボルド
                   (ノーベル生理学・医学賞)


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