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肯定できなくても否定しなくていい

自己肯定感という言葉をよく聞くようになった昨今ですが、私は精神疾患を患っている割に自己肯定感が高い方だと感じています。
自分のことをだめだダメだと責めたり悲観的になっても、自分は自分だしなぁと結局のところ否定はしていないなと。

そもそも、自己肯定感が低いという状態はどのような状態なのか?と思うくらいには多分自己肯定感があると思うし、自己否定することはもちろん落ち込んだりすればあるけれど、それがイコールで自分の価値に直結するとは考えていないです。
そういう考え方を持っているのになぜ自分が精神疾患を15年も患っているのかはまぁ謎でしかないのですが。
私の場合、うつ病や双極性障害という病気の種類ではなく、神経症・心身症と呼ばれる部類?の社交不安障害なので精神の状態が体調に影響して結果として日常生活に支障をきたしてしまうわけです。ですが、それも今は発症した当初に比べたら全く異なる状況です。本当になぜいまだに調子が良くならずに通院しているのか謎である。私は社交不安障害なのか?

さて、論点がずれるのが私の特技でありますが、このように、論点がずれたことも特技と表現するのはおそらく否定的にとらえていないからだと思います。どちらかといえば自分の特徴として特徴を特長というようなタイプ。
小さなころから肯定されてきた人生を歩んでいたわけではないし、むしろその逆でした。いつも兄と比較されてできることの方が多かった私ですが、できることができるがゆえに何事も100点でなければ叱られる。兄は50点でもがんばったねと言われるのに私が90点ならなぜあと10点取れなかったのかといわれる。そのことを母に問うといつも「なぜいつもそのことを蒸し返すのか。それはあなたができる子だと思ったから惜しいなあと思って深い意味はなく言っただけ。90点取れたことはすごいと思っていたし、今も思うよ」と言われますが、この刷り込みを小中高とされてきたわけですから、自己肯定感が高まる理由はあまりないですよね。
なので、どちらかというと、家庭的環境では自己肯定感が育たなかった分、社会的に自己肯定感を高めたというか、大学で心理学を学んだこともあるかもしれないけれど、比較的大人になって自己肯定感が高まった感があります。
それでも子供のころ、「お母さんはいつもあと10点何で取れなかったのっていうけど、90点も取れた私すごーい!」と自分で自分をほめていた気がする。お母さんに一番褒めてほしかったけど、褒めてもらえない分を自分で褒める、セルフケアを幼いころから無意識に身に着けていたのでしょうね。自分の心を守るために。

幼い子供のころからそうして自分の心を守ってきた私は、自己否定をしてしまってもいいとこ探しをするクセがついています。習慣化してしまえば「とはいえ私は○○だし~別に生きてて困ることないし~」というギャルマインドで人生乗り切ってきた感。
そしてこれも一つ要因かなと思うのは、小さなころから母や祖父母から言われれてきた言葉で「人のいいところを見つけられる人になりなさい。人の悪いところは見ようとしなくても見えてくるものだから、その人のいいところを見つけて伝えてあげられるならもっといい。そうして人のいいところを見つけて接していれば相手にも伝わって優しく接してくれる」そう教わって生きてきました。
それを自分自身にも行ってきていたのかもしれない。自分のことを客観的に見るもうひとりの自分が「丸井ちゃん、こういういいところあるよ!悲観的にそんな悪いところばっかりみてないで、こっち見てごらん!」そんな風に言ってあげるもう一人の私。
そのもう一人の私がいることでどれだけ救われてきたんだろう。

肯定することは簡単じゃないかもしれない。だけど、肯定できないイコール否定ではないし、人間の感情や感覚はグラデーションであるから、肯定感だってペールグレーとかダークグレーとかいろんな色があるんじゃないかな。今はモノクロでたとえたけれど。
否定が黒だとして、肯定が白だとして、あなたの感情は白黒はっきりしているのでしょうか?グレーだったりしませんか?それなら肯定感も少しはそこに存在しているってことにはならないかな。
私はそう思うよ。

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