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We Are All Mad Here ! (前編)第1〜3章

第1章


6月27日

枕元から数十センチ上、手を伸ばせば容易に届くほどの位置にある窓と、鼻先から数メートル先にある天井から忙しなく鳴り響いている音。
まるでこの空間の外側の世界はすでに制圧し、いよいよ次は内側にまで攻め込んできそうな勢いで降っている、大粒の雨の音。

孝宏はそんな攻撃的な音によって強引に現実世界に引き戻された。

ベッドの上で体を起こすと、いつもだったらしばらくの間そのままぼうっと、さっきまで自分がいた夢の世界のことを思い出す作業を行うのが日課だったが、この日は違った。

両足をベッドからすぐに下ろし立ち上がると、勉強机に駆け寄って一番下のキャスターがついた引き出しを開け、まだ霞んでいる目をしっかりと見開いて中を確認した。

昨日この部屋に帰って来ておもむろにしまったあのビニール袋が、一晩経って何かの間違いで、あるいは「昨日」が全て夢だったとしてもいいから、綺麗に消えてくれていることを心の中で祈りながら。

しかしビニール袋は昨日自分が入れた時の状態となんら変わりなく、菓子もオロナミンCも押し込んだ手紙も、袋の外側から容易に確認できるほど、ただただ圧倒的な禍々しさを放ったままそこにあった。

孝宏はため息をつき、引き出しを閉め、今度は勉強机の左手側に位置している窓に近づき、カーテンを開けると、目の前にはグレースケールのフィルターをかけたような世界が憮然とした表情でそこに存在していた。
ふと数メートル先の下の方に目線をやると、いつもはポリカーボネート製の透明な屋根越しによく見えるはずの駐車場内の様子が、今日は降りしきっている雨のせいで透明が歪んで見えにくくなってしまっていた。

孝宏の両親は二人とも毎朝自分より早く家を出るので、車がないことは分かっているのだが、なぜかこれも毎朝確認してしまう、もう癖みたいなものだ。
しかし今日それよりも確認したかったのは、ビニール袋に続く新たな「何か」だった。

「なんだ、これじゃあ出た時に確認するしかないな」

そう呟くと、孝宏は部屋を出て階段を降り、トイレで用を足してから洗面所に行って歯を磨き、顔を洗ったあと、また二階の自室に戻って手早く着替えを済ませ、ランドセルを持って今度は下の階の居間に向かった。

居間の中央にどっしりと居座っている、サイドに彫刻が施されたオーク製の大型ダイニングテーブルの上には、おむすびが二つラップに包まれ、テーブルの無駄な派手さに不釣り合いな様子で端の方にちょこんと並べて置かれていた。

近くには手紙も何もない、ただ整然と置かれているだけだ。
毎度のことだったが孝宏にはこのスタイルがなんだか与えられた餌のように感じられて、いつも少し嫌な気分になった。

日々の経験上、どちらにも具が入っていないことは分かりきっていたので、孝宏は適当に片方一つを掴んでラップを開けて頬張り、雑に咀嚼し飲み込んだ後、足早に玄関に行ってフル装備を始めた。

家から学校までの道のりはそう大した距離ではなかったが、なにぶん周りが山だらけの辺鄙な地域に住んでいるため、落石や山崩れなどの防災上、雨の日はこのフル装備で登校するのがこの辺りの児童達の常識で、更に厄介なことに義務だった。

ちなみに「フル装備」とは児童達が知らず知らずの内にそう呼ぶようになった俗称だったが、一目見てもらえれば納得の、文字通り「フル装備」だ。

ランドセルを背負った上に厚手のカッパを着て、頭には黄色いヘルメットを被り、足元は通常よりも少し長めの長靴。
これを装備すると誰でもヘンチクリンで格好の悪い見た目になる。

過去、孝宏が小学3年生の秋、社会科見学という名目の遠足において、不運にも今日のような雨の中、総勢21人の1クラスしかない学年全員でバスに揺られ、件のフル装備で訪れた遠方の街の動物園で、他の学校から遠足で来ていた同学年の小学生達を見た時、孝宏は初めてこの格好が異常だということに気づいた。

友人達は口々に「あの子達、ヘルメット被ってないよ!危ないね」とか「変だよねー」などと話していたが、孝宏はすれ違いざまに他校の生徒達が自分達の格好を見てクスクス笑っているのに気づき、惨めで仕方なかった。
大体、雨が降っていたとしても街の動物園でなんの危険を防ぐためにヘルメットを被らされなきゃならないんだ。

孝宏はその時からフル装備も、遠足にまでフル装備を強要する阿呆な教師も大嫌いになった。


少しきつくなってきている長靴を最後に履き終え、げんなりしながら玄関を出て鍵を閉め、その鍵をポケットに突っ込みながら門をくぐり、一応忘れずに車が空っぽの駐車場内をひとしきり見渡してみたが、そこにはただただ屋根に打ち付ける雨音が大音量で響き渡っているだけで、特に今日は何も落ちてはいない様子だった。

「何もない…か…」

安心はした、が、孝宏は何故か少しだけ残念に思っている自分が不思議だった。

登校中、フル装備の蒸し暑さと長靴によるつま先の痛みに耐えつつも、やはり頭の中では昨日の手紙のことが何度も駆け巡っていた。

仮に学校で友達に相談しようにも、どう説明したらいいんだろう。

あれこれ考えながら歩いていたが、
いざ学校に着くと、あんな内容を友人達に相談すること自体が急に恥ずかしくなってきて、孝宏は結局誰にも話せないまま、なんとかひたすら平静を貫きつつ授業を受けていたが、普段は憩いであるはずの合間の休み時間がこんなにも長く感じるのは初めてだった。

なんとか昼まで持ち堪え、給食を食べ終わり、一人、自分の席でただぼうっと、窓の外の雨に打ち付けられている校庭を眺めていると、クラスの中で一番仲の良い慶太が突然、目の前の席の椅子に背もたれを抱え込むような格好で孝宏の方に向かって腰掛け、何かを察した表情を浮かべながら話し掛けてきた。

「孝ちゃん、なんかあったん?今日ずっと元気無いやん」

「いや、なんもない…。いや…あると言えばあるんだけど…」
「どっちなん?なぁ、絶対誰にも言わんから話してよ」
「うん、なんて言ったらいいのか…」

「じ、実はさ、慶ちゃん、昨日家に帰った時のことなんだけど…」

孝宏は順を追って昨日起こった出来事と、できる限り正確に手紙の内容も説明したが、どうせ笑われるか嘘だと思われるのがオチだろうなと踏んでいた自分の想像とは全く違う反応が返ってきた。

「まじで?すげーな!かえるって、あのゲロゲロ鳴く蛙だよね?蛙って菓子買えるんだな!」
「いや、そこ!?普通まずは疑わない?俺が嘘ついてんじゃないかとかさ!」
「あーそっかそっか!で、嘘なん?」
「いや嘘じゃないから困ってんだけどさ…」
「だろ?嘘だったらそこまでずっと元気無いのおかしいしさ。それに孝ちゃんはそんな幼稚な嘘はつかないもんね」
「え?お、おう」

この西村慶太という、目がクリクリとしていて、年がら年中部活動であるサッカーにより、よく日に焼けた茶褐色の肌をした男の子は、いつも明るくてノリが良く、お調子者キャラとしてクラスメイトの間では通っている、でもチャランポランに見えて実は意外とよく人を観察していて面倒見がいいし、おまけに頭が切れる。
孝宏とは保育園からの付き合いで、家が近所ということもあったが、昔から人と馴染むことが苦手で、基本的に一歩引いて物事を見ているような孝宏と何故か馬が合い、今では無二の親友になっていた。

しかしこんなに分かりやすく妙チクリンな話さえいつものノリでスッと受け入れられると、逆にこちらが反応に困る。

「しっかし孝ちゃんが蛙から手紙貰うとはなー」
「いや、まだ相手が蛙って決まったわけじゃないからな!」
「なんでよ、蛙のが面白いじゃん!」
「まず蛙が文字書くってのがやっぱりどうしても想像できないよ、どっかの頭のおかしい人間のイタズラと考えた方が今のとこは…」
「いや!俺は蛙だと思う!だってさ、孝ちゃんも一緒に帰るとき、よく見るじゃん!あの三遊楽の先んとこの沼にいるウシガエル!あいつの鳴き声さ、俺たまに喋ってんじゃないかと思ってたんだよね」
「え?普通にヴォーヴォー鳴いてるだけじゃん」
「うちの父ちゃんもよくあんな声出すもん!」
「いつどのタイミングでだよ」
「うーん、寝てるときかな」
「それイビキじゃん」

目の前の悩んでいたことを忘れるほど二人は笑い合い、孝宏はいくらか気が楽になって、慶太に話して本当に良かったと思った。

時間を忘れ話していると、そろそろ昼休みも終わりに近づいていたので、孝宏は次の授業の準備をしようと机の中に手を突っ込んで国語の教科書を探していると、唐突に慶太は話を本題に戻した。

「で、どうすんの?」
「え?どうすんのって何を?」
「何をって、人間一体、用意すんの?」
「は?できるわけないだろ?」
「そうかな?」
「できなくもないよ」


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