見出し画像

魂を、震わす。

①生きる意味


ある本で読んだ。
人間として生まれた以上、生きていく上で必要不可欠なもの。

それは

         『畏敬』の念

【畏敬】
・・・[名]崇高なものや偉大な人をおそれ敬うこと。



動植物と違って、子孫を繁栄する以外の機能を与えられた人類。

あらゆる感情、判断、想いを持つことを許された代わりに


その生き方の選択によっては
時に人は、自らの命を自分から危険に晒すこともある。


私も以前、
自分の身体なんか価値が無いと、
自身を痛め付けることで心を保っていた時期があった。


          「魂の声と現実のギャップ」
           「今現在と未来の距離」


が広ければ広いほどに
そのモヤモヤは確実に蓄積されていき

何かしらの身体のサインを通して
「魂」は必ず私に訴えかける。




②心の声


「素直」と「わがまま」「身勝手」は紙一重だ。


私はこれまで「素直」に生きてきたが、
それは客観的にはわがままに生きてきたとも言える。
まさに「我が」ままに。


「直感」って、魂を震わすことだと思う。
魂が震えた方に、足を進めてきた。

進路・就職・結婚・引っ越し・転職…
生きていれば幾度となく、選択を迫られる。

「親の期待に応えるため」
「金銭的な問題」
「子供のため」
「体裁」
「将来のため」


動物と違ってあらゆる感情、判断、想いを持つことを許された代わりに

何かの決断をする時人は、

「魂の声」の上から、たいてい他の感情をトッピングする。

そしてそれは時に、「魂」を封じ込める。


「仕方ない」
「こうするしかない」
「周りから何て思われるか」


これらの文句は思いの外、意図してないところまで心にまとわりついて離れないし、

何かを決める時の、
優先的な判断基準になったりしてしまう。



③「畏敬」と「魂」


広い大聖堂の中で声が響き渡る時。
歴史のある神社仏閣を訪れた時。
こぼれそうな満天の星を目の当たりにした時。
動物の脅威を感じた時。
焼き付くような太陽の力を感じた時。


コントロール出来ない壮大さを目の当たりにした時
人は自然の一部である自分を、魂で感じとる。


それこそが【畏敬】。



「目」「耳」「鼻」「感覚」は、魂に働きかけるツールのようなもの。

心と身体が離れないように、思い出させてくれるもの。


心と身体が一体の時は、
自然と【畏敬】が日常に溢れかえる。

自然に触れあいたくなる。



私は今、自信を持って

「魂を震わせて生きている」

そう思う。


でも、これは単にそのタイミングが来ただけのこと。


のちに読み返すと、
「あんな時もあったなぁ」と
全く違う世界線で生活していることだってあり得る。


心も身体も
物質は全て流動的なもの。


だからこそ、今この時を大切に、
そして「魂」を突き動かす何かを感じとりながら


生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?