清少納言って、どんな人?
こんばんは、よろづ萩葉です。
YouTubeにて古典の解説をする万葉ちゃんねるを運営している、古典オタクVTuberです。
ここでは、清少納言とはどんな人だったのか、簡単に記していきます。
この時代のことは『諸説ある』ものが多いので、100%事実というよりは物語に近い感覚で読んでいただければと思います。
清少納言と枕草子
彼女が枕草子を書いたのは、時の権力者である藤原道隆の娘であり、天皇に嫁いだ中宮定子に仕えていた時です。
つまり、これは宮中で働いていたときに書かれたものになります。
枕草子は、その当時の宮中の様子が華々しく描かれているのが特徴的ですね。
天皇に仕えている頭の良い男性たちと対等に渡り合う女性たちの記録、と言えるでしょうか。
平安時代には、頭の良い女性はあまりいなかったんです。
そんな中で、とても賢い清少納言は、中宮定子の家庭教師のような立場でした。
この二人はとても仲が良かったんです。
清少納言と紫式部
博識な清少納言のことを気に入っていた人が多かった反面、中には批判していた人もいました。
なんと、紫式部が日記で清少納言の悪口を書いたりしています。
女性のくせに知識をひけらかすなんて気に入らないわ、といった感じです。
これはもう、ただの悪口です。
清少納言と紫式部がライバルだと言われている理由の一つなんです。
この二人は宮仕えしていた時期が少しずれているので、直接の交流はありませんでした。
清少納言の方が早く、彼女が退職したあとに紫式部が入ります。
もしかしたら、紫式部も頭が良いことで何かと言われていたのかもしれませんね。
同じ女性なのに清少納言はみんなに気に入られていた…という僻みもあったのでしょうか。
悪口はよくないですが…気に入らないと言いたくなる気持ちはわかるような気がします。
清少納言の名前と家族
清少納言、って、不思議な名前ですよね。
これ、本名じゃないんです。
清少納言という名前は、彼女の苗字が「清原」であることから、中宮定子がつけたあだ名です。
彼女の本名は「清原なぎ子」ではないかとされています。
清原家は、代々歌詠みの家系でした。
ひいおじいちゃんは「清原深養父」、お父さんは「清原元輔」といいます。
どちらも百人一首に歌が採られているくらい、有名な歌人です。
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ 清原深養父
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 清原元輔
そんな家に育った「なぎ子」は、きっと小さい頃から文学に触れる機会が多かったのでしょう。
男性でも貴族しか習得しないような漢詩にも詳しい、とても賢い女性に育ちます。
清少納言の婚姻と悩み
彼女は宮仕えする前、実は結婚しているんです。
その相手は、橘則光。
彼は和歌が嫌いで、いわゆる体育会系の人でした。
これだけ見ても、「なぎ子」とは正反対ですよね。
ご想像の通りかと思いますが、この二人はすぐ離婚します。
離婚の理由は、性格の不一致でした。
今でこそ1番目か2番目には上がりそうな理由ですが、平安時代にこの理由で離婚した、と断言できるのはこの二人以外に思いつかないですね…
それだけ、当時の女性としては珍しいくらい、なぎ子の気が強かったと言えると思います。
そんな現代的な女性だからこそ、今の僕たちにも共感できる文章を書くことができたのかもしれませんね。
ちなみに、当時は黒くて真っ直ぐな長い髪を持つ女性が好まれていましたが、この時のなぎ子は
とんでもない天然パーマだったのです。
人に見せるのが恥ずかしいほどの癖毛で、エクステをして隠そうとするも隠しきれず…と枕草子の中で嘆いています。
この時代のエクステは「かもじ」といいます。
天然パーマと離婚は特に関係はないかと思いますが…
清少納言の宮仕え、藤原行成との交流
そんなわけで離婚したなぎ子ですが、その頭の良さを買われて宮仕えをすることになります。
藤原公任、藤原実方、藤原斉信といった、名だたる才英と対等に渡り歩いて行くことになるんですね。
その中でも特に面白いのは、藤原行成との関係です。
早くに亡くなった彼の父親は有名な歌人(藤原義孝)だったのですが、行成本人は、和歌を読むのが大嫌いなんです。
清少納言も歌読みの家系に生まれたので、周囲の期待に答えなくてはいけないとプレッシャーを抱えていました。
そのため、彼女もあまり和歌を読むのは好きではなかったようです。
この時代は和歌を読み合うのが流行っていましたが、この二人はお互いに和歌を贈るのを避けていたんです。
そんな中、とあることがきっかけで清少納言はこの和歌を行成に贈ることになります。
夜をこめて鳥の空音は謀るとも よに逢坂の関は許さじ 清少納言
夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして「もう朝だ」と騙そうとしても、この逢坂の関は決して開きませんよ。
百人一首にも入っている歌です。
この和歌を贈られた行成は、嫌々ながらも返事を和歌で返したんです。
このエピソードは枕草子に描かれているんですが、そのときに詠んだ行成の和歌が酷すぎて人に見せられなかった…というんです。
そう言いながらも枕草子にしっかり書き残してしまっているのですが…
この二人は嫌味を言い合えるような関係だったようです。
平安時代にも、こんな男女の関係があったんですよ。
その後の清少納言と中宮定子
枕草子で描かれている時期は、清少納言の人生の絶頂期だったかもしれません。
この後、中宮定子の父親が亡くなり、定子の夫である天皇は別の女性とも結婚し、徐々に弱っていった中宮定子は若くして亡くなってしまいます。
そのあとの清少納言は、表舞台から姿を消してしまいます。
定子の子どもに仕えたのか、田舎へ帰ったのか、詳しい記録は残されていないんです。
枕草子には、悲しい話は一切記されていません。
中宮定子との楽しい日々だけが残されています。
表舞台から姿を消したことで、清少納言と中宮定子との絆が際立っているように感じられます。
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