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「ソーシャルビジネス」という言葉を知って早10年

十数年前、大学生だった私は、学部内で最も厳しいと噂のゼミに入った。

確かに、その教授が受け持つ必修科目の講義には、単位を貰えないでいる先輩たちが結構な数いたし、講義に参加しない学生への当たりも強かった。ただ、彼の言い分は筋が通っているし、根は良い人だと確信していたので、彼のゼミ以外を考えたことはなかった。

私たちは、英文科ではあったが、政府開発援助(ODA)や途上国支援を専門に学んでいた。
世界ウルルン滞在記の大ファンで、活気あふれるアジアの国々を訪れるのが大好きな私にとっては、それらの国々の歴史的、文化的背景を学ぶのが結構楽しかった。

特に、アジア最貧国であるバングラデシュについては、教授から指定された本(洋書)をゼミのみんなで翻訳し、内容についての意見交換をするハード系ゼミだったので、勝手に思い入れのある国となっている。

翻訳本買えば?レベルの書き込み(と落書き)


大学生だった私たちが読んでいたのは、「ソーシャルビジネス」の生みの親でもあり、ノーベル平和賞も受賞したムハマド•ユヌス著「Creating a World Without Poverty(貧困のない世界を創る)」

Creating a World Without Poverty
written by Muhammad Yunus

彼の母国であるバングラデシュでの実践や、支援に対する考え方が凝縮されたこの1冊(約300ページ!)を訳すのは、途方もない作業だった。けれど、それ以上に内容が興味深く、「支援」のイメージを覆され、途上国が内に秘める可能性をひしひしと感じた。

この本の中で、彼が生み出した新しい言葉として「ソーシャルビジネス」が使われている。あれから10年、「ソーシャルビジネス」という言葉はものすごいスピードで波及したように思う。

卒業後は、途上国支援に行く友人もいたが、私は国内でサラリーマンの道を選んだ。一方で、「支援」の道への興味も捨てきれず、その後、方向転換して今に至るのだけれど、その話はまた今度。

貧困の国に生きる彼らには何の落ち度もない。それにも関わらず、『彼らは技能を持ち合わせないために貧困に陥っている、不幸な人たちである』という間違った前提のもと、彼らが持ち合わせない新しい技術やノウハウを身につけさせたり、大企業が仕事を与えたり、災害や紛争などの緊急事態でない時に無償で現金や物資を配ったりするような支援で、彼らが貧困から解放され幸せになれるのか。人は誰しも生きるために十分なチカラを生まれながらに持っているのだから、それを最大限に発揮できる『環境を整える』ことこそが、本当の支援ではないか。

と、ユヌス博士の本にも繰り返し書かれていたが、これは私が支援者として仕事をする上でも大切にしている考え方である。

こういう話をすると、「分かる分かる!魚を与えるんじゃなくて、釣り竿の使い方を教えるんだよね!」と言われたりするけれど、それもちょっと違う気がする。支援者は「教える立場」ではないのだ。

ただ、実際にはどの分野にも、とんでもなく上から目線だったり、自分の方針に従わせようと必死な(自称)支援者って結構いる。

支援の場に上下関係は必要ない。いつでも同じ目線でいられること、自分も含めた皆んなが最大限にチカラを発揮できる環境を整えること。

これって支援の現場じゃなくても、組織運営には結構大切な基礎じゃないかと思っている。
簡単なようで意外と難しい、この心構えを大切に、私にもできることを探していきたい。

そういえば、大学を卒業してから長らく連絡を取っていなかった、例の教授と最近久しぶりに連絡を取る機会があった。大学は数年前に定年退職して沖縄に移住したとのことで、悠々自適な生活をされていることと思いきや、まだまだ国内、海外を飛び回っているようだ。
「沖縄はもう桜が咲きましたよ」と写真を送ってくれて、ほっこり。

たまには真面目な話も。と思ったけれど、こういうのは「たまに」でいいな。

おわり。

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