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めぐりめぐって――東浩紀『ゆるく考える』から

東浩紀著『ゆるく考える』の文庫版(河出文庫)が出た。
同書の単行本は2019年に刊行され、すでに持ってはいたが、思い入れがある本なので、文庫も買ってしまった。(文庫版のあとがきや、解説が読みたかったというのもあるけれど。)

とくに思い入れがあるのは、最初の章「i」に収められた25篇のエッセイである。それらは2018年の1月から6月まで「日本経済新聞」に連載されたものだ。
ちょうどそのころわたしは、毎日の業務のひとつとして新聞各紙(全国紙と地方紙あわせて6紙)に目を通し、仕事に関連する記事を保存するということをしていた。(のんきな作業とあなどってはいけない。それだけやっているわけではないので、連休をはさんだりして数日分たまると、時間がかかって厄介なのである。)
株価や物価の動向は直接関わりない業種なので、日経新聞はほぼさらっと流すのであるが、あるとき「プロムナード」という欄(だったと思う)に掲載された東浩紀の文章に目がとまった。地方における芸術祭をテーマにしたエッセイで、まさにその界隈にいる身には、示唆に富む内容だった。なにより、大事なことが書かれているのに、文章がとても明快で読みやすいのがいい、と感じた。飾りたてた文章とか、難解な文章は、ごめんである。
それから毎週(首都圏では夕刊に掲載されるようだが、当地では朝刊であった)、東のエッセイを意識して読むようになった。
ある回の「天才を理解し許す聴衆を育てなければ、文化は育たないのだ。」(「天才をひとりにしないこと」)という一文にはとても共感を覚え、座右としたほどである。

東浩紀という名前は知っていたけれど、どんな仕事をしている人かよく知らなかった。
インターネットで調べると、東のツイッターがあったので、のぞいてみた。すると、「チェルノブイリツアーの参加者がなかなか集まらない。このままだと中止かも」(注:記憶で書いているので、正確ではない引用である)という主旨のことを呟いている。東が主宰している「ゲンロン」というところで、チェルノブイリ原発を見学するツアーを実施しているらしい。
福島出身のわたしには、原発事故は近しい問題である。しかし反原発運動に関わるとか、福島の事故をきっかけに何かアクションをおこしたわけではない。ただ、未知の「チェルノブイリツアー」というものに、なぜか妙に心が動いた。あの文章の書き手が企画しているのであれば、参加してみたい、と思ったのである。
それから東の著書を読もうと思ったが、難しそうな哲学とか批評とか、またマニアックにすぎる内容のものは理解がおよばなそうなので、まずは読みやすそうな『弱いつながり』という本を手にとってみた。そうしたら、これが衝撃の一冊だった。

 本文で述べたように、ぼくが推奨するのはむしろ観光客でいることです。所属するコミュニティがたくさんあるのはいいことです。ただ、そのすべてにきちんと人格を合わせる必要はない。話も全部理解する必要はない。一種の観光客、「お客さん」になって、複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いていくのが、もっとも賢い生きかただと思います。    (東浩紀「観光客の五つの心得」『弱いつながり』)

この「観光客」という考えかたは、目からうろこ、大げさに言えば啓示のようだった。
わたしは、たとえばPTAとか母親コミュニティとか、同じ属性にいるけれど互いにその人の背景をよく知らない(というか、あまり知ろうとしてはいけない)まま、おつきあいや子ども関係の仕事をしなければならない場で、ひじょうに苦しんだ経験がある。社交ができないと言えばそれだけなのだが、この本をその前に読んでいたら、「観光客」として少しはうまくふるまえたかもしれず、これほど悩まなかっただろうなあと考えた。
『弱いつながり』に感銘を受け、これはもうチェルノブイリツアーに参加しない理由はない、と思った。しかし、海外旅行はもう20年行っていない。仕事も、家のこともある。どうしようかとさんざん迷ったけれど、直感を信じて、仕事はなんとか休みを申請できるだろうと、ツアーにおそるおそる申し込んだ。結婚するとか家を買う並みの勇気が要った。

ツアーは参加者が予定人数に達し、2018年6月に催行された。ツアーの詳細や感想はここでの主旨ではないので省くが、結果、参加して本当によかった。「観光客」として過ごしたあの数日間を、今でもなつかしく思い出す。
そしてなにより、あのとき新聞を読んでいなかったら、東浩紀の文章には出合わず、チェルノブイリにも行っていなかっただろう、ということを考える。こういう思いがけない僥倖は、人生にはそれぞれ大なり小なりあると思う。じぶんの人生を見捨ててはいけない。

チェルノブイリツアーの経験は、仕事にも影響があった。
わたしは仕事で短歌を読んだり(「詠む」のではない)、勉強したりすることがある。
ほとんどの人は、日常生活において短歌に触れることはないと思うので、以下はマニアックな内容になってしまうことを最初に断っておく。
小池光という歌人がいる。小池の短歌に、このような一首がある。

チェルノブイリの人去りし村に夏草はうつしみの美のかぎりをつくす
(小池光『滴滴集』)

この歌は前から認識はしていたが、チェルノブイリから帰った後にふと読み返す機会があって、驚愕した。わたしが見てきたチェルノブイリ周辺の風景が、まさにこの通りだったからである。
ツアーで訪れたプリピャチという町(原発から約4キロ、原発従業員とその家族が住んでいた)は、原発事故後に無人となり、廃墟と化した。「ゴーストタウン」のイメージをもって現地に行ってみると、意外にも、事故から30年以上がたった町には、まるで森と言っていいほどの緑があふれていた。人が住まなくなったことによって、希少な生物も生息するようになったらしい。その生命感に満ちた光景は、「うつしみの美のかぎりをつくす」そのものだった。
「夏草」は、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を持ち出すまでもなく、人間のいとなみと対比させることで、人の世のはかなさを表す定型表現であるが、小池の歌はそれを差し引いても、あまりに真にせまっている。
作者もじぶんの目で見てきたのか? 
しかし、そうではないということだった。想像の世界であると。
そのことを知り、想像力をもって、わずか三十一音で現実に匹敵する世界を生みだす短歌とは、凄い詩型の文学だな、と思うに至った。
わたしは学生時代の研究対象が和歌であり、近代・現代短歌にも幼いころから親しみをもってきたが、この短い詩型には、小説にも映像にも負けない、深くて大きな表現の力がある、ということを前掲の一首からあらためて確信した。それはわたし個人にとって大きなよろこびであり、豊かな収穫であった。

以上は偶然出合った東の文章からめぐりめぐってもたらされた。その不思議をこうして語らずにはいられない。


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