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アート鑑賞の不思議な心地よさについて考えてみた

こんにちは。GoodpatchのUXデザイナーの天野です。

みなさんは、普段美術館の展示や芸術祭に足を運んだりされますか?
私は数年ほど前から、時々ふらりと美術館での展覧会や国内各地の芸術祭を訪れています。アート作品って「観る」でも「聴く」でもなく、「体感する」というような独特な体験だなあ、とふと感じています。

自身は元々アートを積極的に学んだ経験はなく、実際今もまだ美術史などの素養はほとんどありません笑。アートが「好き」かと言われると、それも少し微妙なところ。アーティストの意図がよく分からずモヤモヤしてしまうことや、抽象的で難解なテーマを理解しようとしてかなり疲れてしまうこともあります。でも、アート鑑賞には不思議な謎めいた心地よさがあり、また行ってみたいなあと思うのです。

この記事ではそんなアート初心者の自分の視点で、アートの持つ魅力について少し考えてみたいなと思います。

改めてアートとは

自分のいまの知識で「アートとは何か」の定義を語れるものでもないのですが、アート鑑賞について思いを巡らすうえで、改めて。

私はアート=英語での「art」=日本語での「芸術」、人々の創作活動とそれらが生み出す表現物、と解釈しています。

「芸術」の辞書上での定義を見てみると:

(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを指す場合もある。

広辞苑無料検索より抜粋

上記での「鑑賞的価値」、具体的にはどんな価値?というと言語化が難しいですが、私たちの感性や感情になんらかの形で変化をもたらすことかなと自分自身は捉えています。何かについて考えるきっかけを与えたり、または純粋に心が落ち着くような感覚をもたらしたり。創作者側の意図であることもあれば、そうでない(受け手の鑑賞体験との化学反応によって偶発的に生まれるものである)こともあり、そのどちらにも優劣はないと思っています。

挾土秀平「土に降る」展示会場風景


アート作品から得るもの、感じるものは人それぞれ

音楽や映像、舞台芸術、文芸など様々な表現媒体のアート共通で言えることだと思いますが、作品に向き合うことで鑑賞者が得るものは本当に人それぞれ。よく言われるように、正解はないのだろうと思います。

サービスやプロダクトのデザインにおいてはユーザーを理解し、彼らの理想の状態を描いてそれをどう実現していくかを設計していくのに対して、アートにおいては明確なユーザーが存在しません。創作者であるアーティスト本人が、表現したい自分の思想や世界観をものに落とし込む。私たち鑑賞者は、自分なりの受け止め方でそこから「何か」を感じ取る。

「XXのような人たちに対してXXを伝えたい」という創作者側の明確な意図が存在するメッセージ性の強い作品もありつつも、究極のところは鑑賞者側の解釈に委ねていることが多いと思います。ある意味、創作者→鑑賞者の関係性は、一方通行のようなコミュニケーションとも言えるかもしれません。

デザインに携わる身として、アートは鑑賞者側を主体として見て創られていないこと、ここにある種の新鮮味を自分は感じているのかなとも思ったりしています。

塩田千春 「Uncertain Journey」展示会場風景


解釈の違いが、鑑賞者間での新たな対話を生むきっかけに

ふと直近の自分の鑑賞体験を振り返ってみると、アート作品の鑑賞を通して感じたことを友人らと共有するなかで、相手をより知ることに繋がるような、面白い気づきや会話が生まれることが多いなということに気づきました。作品の解釈の違いや多様性そのものが、鑑賞者間での対話や理解を促すきっかけになっているのではないかと。

例えば先月まで東京写真美術館で行われていた、写真家深瀬昌久さんの展示。

自身の私生活の瞬間瞬間を抉り取るように撮影された、私写真の数々。迫り来るようなリアリティを私も友人もひしひしと感じたのですが、それが友人の心の琴線に深く触れたのに対して、私は少し得体の知れない不気味さ、怖さを感じていました。

なぜだろう?と考えてみる中で、直近の私は耽美的な、とにかく没頭できるような作品に触れていたこともあり、アートに対して非日常的な側面を強く求めていたのではないか?そこで「日常」を急に目の当たりにしたことによって混乱したのかも、というような気づきがありました。もしかしたら、この展示をフォトジャーナリズム的な視点で観ていたら、また違った感じ方をしていたのかもしれないですね。

と、改めてアート作品の鑑賞後の体験について考えてみると、作品から何を感じるかは人それぞれ、という前提があるからこそ、お互いの考え方の違いをオープンにポジティブに受け止めやすいという利点があるかもなと私は感じました。ゆえに自身の場合には、自己開示や自己主張を助けるツールとしても少し機能しているのかな?そんな気もちょっとしています。


アート鑑賞における「楽しみ方」の自由度の高さ

作品から得られるもの自体も十人十色ですが、そこに至るまでにどのように楽しむかも人それぞれ。色々実験しながら自分なりの楽しみ方を模索できるところが魅力的だなと私は感じています。ここでは特に、絵画や写真、彫刻、インスタレーションといった視覚的要素の強い作品を展示空間で体感する体験において、実感した自由さについて触れてみます。

時間や空間との向き合い方が自由自在であること

一つ一つの作品を廻るのにじっくり時間をかけてみたり、観る位置や角度を変えてみたり、行ったり来たりしてみたり。展示空間で自由に動き回ることができる。屋外や自然光の射す空間であれば、時間帯によっても見え方が変わる。よって感じ方も変わる。人と一緒に行けば、その場で会話が生まれソーシャルな体験になるし、一人で行けばじっくり内省タイムにできます。
その時々で過ごし方を大きく変えることができると言う点に、演劇や映画など決められた時間と空間の中で集中して享受する体験とは違う自由さ、面白さがあるなと思います。

少し前に行ったものだと、YOSHIROTTENさんの大規模個展「SUN」@国立競技場駐車場や、DUMP TYPE/ダムタイプの展示@アーティゾン美術館がとても居心地よかったです。一つの大きな作品を軸に展開され、展示の鑑賞に明確な始まりや終わりがない体験。空間の中で雑多に人が行き来しているのをぼーっと観察するのも、インスタレーション作品の鑑賞の醍醐味なのかもしれないですね。

YOSHIROTTEN「SUN」
画像出典元: sunproject.ydst.io/


DUMB TYPE「2022:remap」展示会場風景


みなさんは、展示を観に行くとき、どのように過ごしていますか?
私は、例えば美術館の展示では最近以下のような流れを試みていることが多いです。

  1. 前提知識なし+かつ作品の説明も読まずに一人で一通り廻ってみる。なんとなく気になった作品のところで足を止めてぼーっとしてみる。
    →結果、よく分からない、これはなんだろう?というふわふわした感覚を得る。

  2. もう一度入り口に戻って(順路逆戻りですみません..)、今度は説明を読みながら、作品の背景を理解しようと試みる。
    →いくつか新たな発見がある。

  3. 帰宅した後、アーティストやその展覧会について調べてみる。
    →いくつか新たな発見がある。

  4. 後日、同じ展示を観た友人知人と感想をざっくばらんにシェアし合う。
    →いくつか新たな発見がある。

自分は一気に吸収しようとすると疲れてしまうため、細切れに情報をインプットしているのですが、そうすることで自分の解釈が都度都度アップデートされていく感覚があり、楽しいです。どんな時にどんな発見があって、どうアップデートされるのか?の傾向はまだ自分の中で落とし込めていませんが..。ただ、色んなことが理解しきれていない1のカオスな状態が自分は結構好きだったりします。


自分なりのアートの楽しみ方を見つける旅へ

と、ここまでアート鑑賞の不思議な魅力について初心者の私なりに振り返ってみました!

創作者の表現を自分流に解釈して、そのとき感じたことをその時間・空間に漂流させておくことのできる自由さ - 究極にいうと「楽しまなくてもよい」楽しみ方に自分は心地よさを感じているのでしょう。

アートの世界は奥深く、色んな表現の思想や手法についてもっと理解が深まったら、見方も広がりさらに楽しくなるのかな。そう思うとわくわくしています!

アートに対して敷居が高い、高尚なイメージを持っている方も多くいるかもしれませんが、(私もそうでした)、もしこの記事を読んで「面白いかも」「そんなに自由でいいんだ!」など思ってくださった方がいたら、ぜひ美術館や展示等に足を運んでみて、自分なりの楽しみ方を見つけてみてはいかがでしょうか。「インスピレーションを得る」「アウトプットに活かす」というような明確な目的意識はあえて持たずに、ぜひふらりと訪れてみてください。



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