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生老病死

こんにちは、早くも一月も終わりですね。
前回は世の中やばすぎてあけましておめでとうじゃないみたいなことを書いたのですが、2024元旦から大地震が起きたり飛行機が衝突したりとほんとにおめでとうとか言ってる場合じゃなくなってしまいました。被害に遭われた皆様のことを思うと大変つらいですし、また今後の復興と少しでも明るい未来を願っています。

さて年明け早々夫が入院→手術というイベントがありました。幸い特に大した内容ではなく入院も3泊の予定を2泊に繰り上げて退院できたのですが、自分も家族も周りも中年期を迎えると肉体面ではほんとにいろいろありますね。

自分は前半生のメンタルは瀕死で生きてきた反面、肉体だけはバッチリ超健康で何の心配もなかったのですが、中年期になりメンタルが爆上がりして幸せMAXになったと思ったら今度は肉体面の劣化が出てきて、人生はどこまでいってもバランスなんだなと実感しています。心身共にどっちも大事ってことなんですね。

御成門の慈恵医大病院。
建物が新しくて病棟もめっちゃきれいです。

さて夫の手術当日は、義両親も来てくれました。そんなに大したことではないとはいえ全身麻酔の手術はやはり心配らしく、自分の息子のために電車をのりついではるばるやってきた80代近い2人。

迎えに駅まで行くと、互いに20mくらい離れて立って待っていました。

そう、2人は現在めちゃくちゃ仲が悪い。
特にここ数年、お義父さんが会社の嘱託員を辞めて完全に家にいるようになってから、夫婦の仲は過去最悪のようです。わたしの顔を見るなりパッと笑顔になる2人ですが、次の瞬間互いを無視しながら2人同時に話しだすので(張り合ってる)3秒ごとに義父と義母の相手をする羽目になり、今日1日無事に過ごせるかな・・・とやや心配になりました。

しかしこんなに仲が悪いのに、息子のために一緒に来るんだから、素晴らしい義両親だなと思います。それに2人は小競り合いをしてても、関係ないわたしを巻き込むようなことはしないし、穏やかで好意的です。

うちの両親はもっと幼稚で感情のコントロールもできないので、同じシチュエーションだったら早々に自分が限界を迎え「帰れ」と言い渡して最悪な雰囲気になっているはずですが、そんなうちの親に比べたら、義両親はただただかわいいだけです。

さて朝イチで開始予定だった夫の手術、なぜか2件の別の手術が入ったので午後へと変更になり、2時間ほど待ち時間が出来てしまいました。

高齢かつ仲の悪い2人を病院地下の待合室にずっと待たせるのもな、と思い、せっかくなので近距離にある浜離宮にお散歩に連れて行くことにしました。

はい到着
初めての浜離宮を物珍しそうに歩く義父
義母の歩きのペースは無視するため後ろで激怒する義母
昔自分が造ったビルを眺める義父
なんだかよくわからない花を眺める義父
ちょっと眠そう
樹齢300年の松を真剣に見学する義父

天気も良く暖かくて、連れてきてよかったです。
病院にいると、半強制的に人の生と死に向き合わさせられるので、小さい義両親の背中を見ながら、なんかいろいろ考えてしまいました。考えてしまいましたが、結局は、

「いかに良い人間として生きて死ぬか」

やはり人生とはそれだけだし、それ以上の答えはいらないので考えるのは終わりにしました。
わたしにとって義両親は大事な存在であり、わたしにそう思わせる2人はきっと良い人間に違いないし、そんな2人と天気の良い昼下がりに大きな公園を散歩しているこの瞬間は、人生の幸せな1ページといえます。

ようやく夫の手術予定時間になったので病棟に行くと、手術着に着替えた夫が出てきて4人でちょっとしゃべってから「じゃあね」「がんばってね」と会話を交わしつつ夫は歩いて手術棟へと行ってしまい、再び3人で待合室へ。

前2件の手術がだいぶ押してるとのことで、夫の手術の終わり時間は面会時間を過ぎるため、終わっても会えないかもしれないと言われました。

わたしはそこまで大した手術でもないし、何よりあまり遅くなると夕方のラッシュになり義両親の帰りが心配だったのでじゃあ帰って明日また来ようかな〜と思いましたが、

「会えなくても面会時間ギリギリまでは待つ」

とお義母さんはきっぱり言い、お義父さんも当然のように待合室に向かい、疲れてるはずなのに愚痴も文句も一言も言わずに息子に寄り添う2人に、いちいち感動してしまいました。いやほんとに、すぐ比較して申し訳ないのですが、マジでうちの自己愛依存支配型の親だったらこの100倍くらいめんどくさくて不愉快な出来事が連発していたはずなので、そのめんどくささが一切無い時点でもう拍手喝采です。

再び長いこと待って結局時計は18時になってしまいました。

やっぱり終わらなかったね、じゃあ帰ろうかと準備していたまさにそのとき、18時1分にナースステーションに呼ばれ、

「いまから医師の説明があります」

と言われて3人で急いで面会室へ。担当医の方が来て、夫は特に問題なく無事に終わったと聞かされたあとに、長くお待たせしてしまったので病棟で少し顔を見せてくれると言ってもらえました。

「待っててよかったね」

と嬉しそうな義母。しばらくしてからベッドに乗せられて運ばれてきた夫はやや意識朦朧としつつもわたしたちを見て

「まだ待っててくれてたんだね・・・」

と第一声でこちらをねぎらう言葉を発してて、心底夫は良いやつだなと笑ってしまい、義母はちょっと泣いていました。

というわけでめでたしめでたしでした。
それから東京駅まで2人を見送ったわけですが、いやーほんとになんていうか、こういう老いとか病とかに真正面から向き合うことや、そのとき同時に湧き起こるさまざまな感情的な思考とかっていうのは、肉体が若くて健康な時には絶対わかんないことだよなと今回はしみじみ感じました。

人はいつか必ず死ぬし、そして人が死ぬ原因はすべて肉体の不具合です。

誰にでも不意に訪れる肉体の老いや病を前にした時に、やはり人が第一に考えることは、これまでの人生、自分がどんな生き方をしてきて、それにどこまで納得できてるのかだけじゃないかなと思います。

どうせみんな死んじゃうし、死んだ後にどうなるかなんてわからないけど、この世の時間はとにかく有限です。

若年期は精神の未熟で苦悶し、中年期は肉体の老いで憂鬱になり、晩年期は病に恐怖する。と同時に一つ前の段階がなんて良かったんだと思うわけです。

老いてみたら若い時の苦悩なんてなんでもない、そんなことより若いってだけで最高じゃないか、と思うし、病気になってみたら顔のシミとかシワとかマジでどうでもいいことだったな、と思うし、いよいよ死に臨むときは、病気でガタが来てたとしても動けるうちにやれるだけやればよかったな、と思うんですよね人間は。

つまり生きてるってほんとに素晴らしいんだと思います。どんな状態であっても。

なぜならやはり無限の可能性あるからですよね。もちろん有限の肉体だから条件は人によって様々ですが、生きてるうちにできることは無限に近いくらいあります。

これはほんとに若い時にはわかんないことだし、若いうちは考える必要がないこととも言えますが、いや今回はほんとしみじみわかりました。

健康ってすごい価値のあること、病気になったとしてもそれは誰にでも必ずあること、そしていつか絶対死ぬこと。

あらゆる生き物がたどる生老病死というステップを、自然に進んでいくだけだし、これは強がりでも何でもなくただの現実です。

梅が咲いてました

だから命があるうちは、良い人間になっていきたいですね。

今年もマイペースに良いと思えることをやっていきましょう。


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