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『みんなのみずのき動物園』展を終えて③〜M・A・T・O・M・E〜

『みんなのみずのき動物園』展の記録その3は、展示全体のま・と・め。

というわけで最後は、音楽とブログについて書いて締めようと思います。
年内にまとめ終えることができて良かったー!!

と、書きたかったのですが・・・全然まとまらないので、とりあえず記事としてアップしておいて、後からどんどん追記していくスタイルでいきマッスルᕙ( ˙-˙ )ᕗ

絵と音

2階に展示した65枚のみずのき絵画には一枚一枚異なる音楽が紐付けられており、入り口で手渡されるタブレットとイヤフォンを持ち歩くことで本物の絵を鑑賞しながら聴くことができました。

みずのきの絵画作品は、30年以上の長きにわたり絵画教室の講師をしていた西垣籌一さんが、作家一人ひとりの特性を観察しながら相性の良い画材を工夫して出来上がった作品群です。
※下のリンク先の書籍では、西垣さんが作家の持ち味を伸ばす画材を見つけるために行ったやり取りが端的にわかりやすく本人によって説明されています。
※ちなみにこの商品ページは私が在庫を問い合わせた時にはなかったのですが、購入するためにわざわざ作ってくれました。その後で他の号の商品ページも追加されたようです。問い合わせてみるものですね。



作家と相性の良い画材を探る。
描き始めていきなり正解の画材が見つかるわけはなく、また各人に正解がひとつしかないわけでもない。そもそも正解があるかどうかもわからないような繊細な問題ですので、ひとりの作家でも表現方法がどんどん変わります。
そこにきて今回2階に展示した作家の数は10人もいますから、65枚の絵画は「動物を描いた作品」と一口に括るのは無理があるほど多種多様でした。
「猫」を描いたとされる作品だけを比べてみても、パステルで描かれたやたら首の長いのがいるかと思えば、アクリルで描かれた別の星の生物のようなのが混じっていたりするのです。

普通なら一人の音楽家の音源だけで、これら65点と対等に渡り合えるバリエーションの幅を持たせることは難しいのでは?と思います。
それを可能にしたのが関西で活躍する即興演奏家の半野田拓さんです。
今回の展覧会は、大量に発表された半野田さんの楽曲がなければ間違いなく実現不可能でした。

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以下、後で追記予定
※半野田さんの音楽との出会い
※半野田拓、何人もいる説
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遊ぶ猫との戦い

小笹逸男さんの《遊ぶ猫》という作品を初めて意識したのはとあるポスターで、そこには《遊ぶ猫》の写真と共にとても目立つレイアウトで「アール・ブリュット」という言葉が書かれていました。
「アール・ブリュット」という言葉はフランス語で「生の芸術」を意味するそうで、本来は「正規の美術教育を受けていない人による芸術」を指すみたいですが、どういうわけか日本では「障害者の表現」として扱われてきた言葉のようです。
その時は言葉の意味もわからず特に思うこともありませんでした。

2階に展示された《遊ぶ猫》、遊んでるね~


私は幸いなことに(自分が不勉強でぼんやりしていたが故に)、みずのき絵画教室のことをよく理解しないまま、みずのきの収蔵庫に入れていただき作品と対峙しました。
余計な知識がない状態で出会い、愉快な衝撃を受けて、笑いと興奮と感動の渦に包まれました。
そして、いざアニメーションを作るとなったら、それらの作品は自分にとっては作者と切り離されたただの動物の絵です。酷いときには素材としてしか見ない時間もありました。
そういった理由から、1作目『夜のみずのき動物園』(2014)を作ったときは、良くも悪くも「障害者の表現」という部分をほとんど意識しないでいられたように思います。

それが2作目『みずのき動物園』(2015)の展示でいくつかのメディアに取材をしてもらった際、展示を企画してくれたディレクター氏が「それが主題ではない」旨をどんなに丁寧に説明しても、「障害者の表現」として話をまとめられてしまうという事態に直面しました。
「この人たちが見てるのは僕の映像でもみずのきの絵画でもなくて「障害者」という言葉だな。取材する前から頭の中では記事が出来上がっていそうだし、僕がいる意味ないね」と悲しい気持ちになりました…。まぁ、その後で色んな人に褒められてすぐにヒャッハーするんですけど(笑)

『みずのき動物園』展示風景(撮影:表恒匡)


そんなことがあったので、その展示が終わった頃からようやく自分なりに「アール・ブリュット」についてそれとなく調べ始めました。それから改めて《遊ぶ猫》と「アール・ブリュット」という言葉が並んでいるポスターを(多分インターネットで)見た時に、【作品よりも前に「障害者」という言葉ありき】の受け取り方を象徴しているように感じられ、敵意にも似た感情を懐いたのです。
ただ、小笹さんの絵の力と「アール・ブリュット」という言葉の力がハマりすぎて下手に手出しできないとも思ったので、アニメーションに使おうという気も起きませんでした。ラスボス感。

それが今回、これまでの展示の集大成ということだったので、初めて意図的に《遊ぶ猫》という絵画作品を「障害者」という言葉から引き剥がすべく戦いを挑みました。
上手くいく自信は十分。なにせ今回こっちにはチート級の持ち札、半野田拓さんの多種多様すぎる膨大な音源の蓄積があるんだからね!


ふたパターンの遊ぶ猫

《遊ぶ猫》という絵画作品を「障害者」という言葉から引き剥がす、とはどういうことかと言うと、鑑賞者に余計な先入観を持たれる前に《遊ぶ猫》という絵の中に描かれた猫そのものを動いて見えるようにする。絵の持つ表情や形の可笑しさで純粋に楽しませるということです・・・って、こうして書くと当たり前ですね…おかしいな。

今回の展示期間中は、インターネット上に展開する関連企画として、飼育員が動物のアニメーション映像とともに観察日記を綴るブログを連載していました(公開は2022年末まで)。

《遊ぶ猫》は絵画作品を2階に展示するだけではなく、このブログの記事に載せるために音付きのアニメーション映像も作りました。
絵画作品に音を合わせてやりたい表現と、アニメーション映像でやりたい表現が異なったので、それぞれ別の曲を合わせています。


A. ディスコで遊ぶ猫

2階の展示では、『5CDS』という5枚組CDアルバムのディスク5に収録された9曲目の音源を選んで使用しました。
CDを持っている方は是非、《遊ぶ猫》の写真を見ながら曲を聴いてみてください。お持ちでない方はコチラから購入しちゃいましょう☆彡
なんとバッヂ10個付き!

この曲は、餌を待ちきれない数匹の猫が台所を飛び跳ね踊り狂いながら、おたまやボウルや食器にちょっかいを出して奏でたような4つ打ち風の曲。※このイメージはあくまで一例です。
ディスコっぽい曲がないものかと探して見つけたので、チャカぽこディスコとでも呼びたい(といっても曲調にいわゆるディスコらしさは全くない。それなのに「ディスコのイメージで選んだ」と伝えて「確かに!」と納得してくれた方々はきっとソウルメイト☆)。
この選曲は半野田さんご本人にもたいへん気に入っていただけたようで、かなり嬉しかったです…!(この曲に限らず気に入らない使い方をして嫌がられたらどうしようと、展示前日に直接お会いするまでビビっていました)

遊んでるね~


B. トランポリンで遊ぶ猫

対してブログ映像の方は、絵画実物の迫力が伝わらない部分を動きで補う必要があったので、わかりやすく面白さが伝わるように少しいやらしい演出をしました。

絵画作品に曲を合わせる場合は、絵に描かれた動物が鑑賞者の頭の中で自由に動ける余地が生まれるような曲を選ぶよう心掛けましたが、映像ではそれとは正反対に曖昧さを避けて動きにぴったりフィットする曲を選びました。
左端の見切れている何かを見切れた形のまま謎の生物として登場させているので、明るい楽しさよりも怪しさ漂う曲になっています。
曲は半野田さんのアルバム『ケッサクシュウ』からトラック9を使用させていただきました。

遊んでるね~

ふたパターンの《遊ぶ猫》。どちらもバカバカしさを感じられるような効果を狙い、自分が直接反応を見た範囲では成功したかな?という手応えがありました。難しいことを考えず、脱力するように楽しんでいただけてたらいいな。


そういえば『みずのき動物園』のブログ記事を書く前に、本物の動物園の飼育員さんによるブログなどを読んでいたら、「(飼育係にとって)大事なのは「観察」をすることです。」と書いている記事を見つけました。
それならアニメーションを作る時と同じだと気付き、ブログ記事を書くことが気楽に感じられたのでした。


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以下、後で追記予定
※猫ってこうやねん!
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選曲の意図あれこれ

繰り返しになりますが、『みんなのみずのき動物園』展で2階の壁面に展示された絵画作品65点には、即興演奏家・半野田拓さんの既存曲の中からそれぞれの絵に合う曲を選んで、ひとつひとつ紐付けました。
受付で貸し出すタブレットを使うことによって、それらの音楽を聴きながら絵を鑑賞することができる、という仕組みです。
ここでは、その選曲をする際に考えていたことをいくつか書き残したいと思います。


2階は私の桃源郷(はあと)

まず、全ての絵画作品に曲を紐付けると決まったとき、展覧会のタイトルに『みんなの』と冠している以上、本来なら展示に関わる複数人で手分けして選曲した方が良いと考えていました。
これは、一人で選ぶのが大変だからなどという理由ではなく、選曲全体の方向性が個人の好みに偏らずにとっ散らかっていた方が、人の手に負えない動物たちの自由奔放さを表現できたり、様々な生態の生き物を観察する場である動物園というテーマに相応しいと思ったからです。
結局、一人で選曲することになり、案の定使用した曲の方向性が偏ってしまったと感じています。
おかげで、選んだ本人にとっては目も耳もひたすら気持ち良い最高の俺得極楽コンパイルになってしまいました。本当に毎日2階の展示室に帰ってきて、真ん中に布団を敷いて絵と音に囲まれながら眠りにつきたいくらいに居心地の良い空間でした。

さて、とっ散らかった内容にしたいからといって、わざわざ本意ではない曲を選ぶことは絶対にしたくなかったので、必然的に私の好みである「分かりやすいリズムのある曲やメロディのはっきりした曲」が多くなり、ノイズ度数の高い曲はほとんど使いませんでした。
幅広い表現を試みている半野田さんの楽曲を自由に使わせてもらえるのに、これは勿体なかった。

そんな中で、盛り上がる曲しか流さない一本調子なDJプレイのようにならないために、自分が良いと感じる組み合わせで選曲しながらも、全体の流れに緩急をつけるような工夫はしたつもりです。
例えばコチラ

・岩本勇《ふくろうの森の物語》

曲:半野田拓『5CDS』CD5 トラック34

大きな窓から夜の森を覗いているかのような錯覚を覚えるこの作品は、100号キャンバスFサイズ (130.0x161.8cm)に描かれた大作で、画用紙に描かれた他の作品と並べることでその大きさがより一層強調されます。
ここまでしっかりと描き込まれた作品には、下手に音楽的な曲を付け足して鑑賞者に押し付けるよりも、絵の中で鳴っているであろう環境音を添える程度が相応しいのではないかと考え、静まり返った夜の森で虫の鳴き声だけが響き渡るような曲を選びました。
この曲は、古い特撮の効果音のようなエフェクト処理が控えめに施され、ほのかな非現実感が感じられるところも良かったと思っています。

ただし、絵の大きさに対して曲の尺が約1分と短く、再生が終わると自動で次の曲が始まってしまう再生ソフトの仕様も相まって、音を聴きながら没入して絵を隅々まで堪能してもらうことがしづらくなってしまい、そこは失敗でした。狙った効果と体験がちぐはぐになってしまった。
それでも、この曲以上にしっくりくる選曲は考えられないという結論に達し、既存曲を使わないといけないことの難しさを感じました。


・山本悟《鳥》

曲:半野田拓『5CDS』CD1 トラック4

緩急をつけるための選曲その2。
こちらの鳥は《ふくろうの森の物語》よりも小さなキャンバス(Fサイズ 20号 (60.4x72.5cm))に描かれていますが、鑑賞者に向かってくるような構図と、鳥の造形や配色にただならぬ気配が漂い迫力満点です。
自分の印象としては、猛スピードで近づいて来るというよりも、スローモーションで羽ばたいて来るか青い光を放ちながら空中に浮かんでいるように見えて、その様子からは動物というよりも神様を連想しました。

そのイメージから、ピッピッポッ、ピッピッポッと心電図のような電子音が反復されてリズムを刻み、歪んだ発信音が周波数を変えながら小刻みに揺れ続ける怪しい曲を紐付けて、少し宗教的な雰囲気を演出しました。
こちらの曲は4分近い尺があるので、絵の世界に没入できた方もいるのではないでしょうか。いてほしい。

この作品には、「ライオンの顔をしたキメラ(合成獣)に見える」と感想を教えてくれた男の子と話して楽しかった思い出があります。鳥の顔がライオンの鼻まわりに見えたようです。黒く塗られたおでこの辺りが鼻というわけ。
異なる解釈に触れられてほくほく。


・中原安見子《動物》

曲:半野田拓『COBALT ARTICA』トラック6

こちらは小さな生き物がちょこまかと、ひたすらに動き回るイメージで選曲しました。
猫なんかを観察していると、小走りで移動する姿が虫のように見えることがありますが、ここに描かれた動物も小動物というより蟻のように動き回る様子が浮かびました。
展示を観に来てくれた知人には指輪に見えてしまうらしく、もはや生物ですらなくて爆笑しました(笑)


・小笹逸男《ひよこ》

曲:半野田拓『ケッサクシュウ』トラック3

赤と青の対比が強烈な、ひよこに見えないひよこの絵には、「豚や山羊、アヒルや鶏なんかが雑多に飼育されている農場にマイクを置いてフィールドレコーディングしたような曲」を選びました(何でそんな曲があるの!?笑)
この曲の尺は半野田さんの曲としては長い方で3分半近くあり、前半と後半ではっきりと景色が変わります。

農場(あるいは動物園)の日常風景を切り取ってコミカルな音で味付けしたような前半から、突如ゆったりとしたギターの調べに変わるのですが、旋律の美しさとは対照的に音質はかなり汚しが入って歪められており、CDが飛んだ時に鳴るようなパチパチした耳障りなノイズ音が小さく重なります。
そして最後に再び動物たちの鳴き声が被さってくるのですが、前半の牧歌的なのどかさとは打って変わって鳴き声は泣き声のように聞こえ、言いようのない哀愁がまとわりつき、謎の物悲しさが物凄い勢いで襲ってくるのです。

この展開が圧巻で、会場で絵を見ながら聴いた時に私は完全に飲まれてしまい、絵の中に描かれたひよこに見えないひよこの形がぐにゃぐにゃっと動き出して天を仰ぎ見たかと思うと、パステルで青く塗りつぶされた背景がわっと頭上に広がり、屋根が抜けて現実の空と繋がるような不思議な感覚とともに様々な感情がドバドバと流れ込んできました。
こうしている今も同じ空の下でたくさんの人間が我欲の深さを競うようにいがみ合い罵り合い、関係ない人まで巻き込んで戦争が長引いて殺し合ったりしているのかと思ったら、人間でいることが急に情けなくなって涙がこみ上げてきました(※薬物は一切やっていません。お酒も4年くらい断ってます、素面)。
なんだったんだろう、あの感覚。


誤解が先か、正解が先か、そもそも何が正解なのか

みずのきの絵画を展示する上で、作品のタイトルを提示するかどうかは、本当に悩ましい問題だと、個人的に感じます。

来場者のアンケートを拝見したら、「作品のタイトルと作者名を書いておいてほしい」という感想がありました。
作品タイトルがわかった上で観た方が、手軽に答え合わせができて安心するし、理解を深めるためにも便利だとは思います。しかしタイトルを目にした時点で、とても厄介な先入観が作品との間に立ちはだかるのも事実。

私はどんなことでも、出来るだけ選択肢を増やすことが大切だと考えています(※選択肢を増やせば増やすほど手間がかかり、管理が難しくなることは理解しています、念のため)。
今回の展示で言えば、受付で手渡されるハンドアウトを見ることで作品ごとのタイトルや作者を確認できるので、本当は曲を流すタブレットにもタイトルを表示したくないくらいでした。タイトルを目にした段階で「何も知らずに鑑賞する機会」が奪われて選択肢が減るからです。
アンケートに「文字のキャプションではなく音楽とタイトルと一緒に見る体験が思いの外よかった」と書いてくださる人もいたので後悔はないけれど、やはりどこかで引っかかりが残り続けます。

関連して、ここから紹介するのは、絵画作品のタイトルが選曲に影響を及ぼした組み合わせです。

・山崎孝《人魂》

曲:半野田拓『グラシアスバウンド』トラック40

みずのきの絵画作品につけられたタイトルは、必ずしも作者の意図どおりではありません。それは作家の中には言葉での意思疎通が難しい方もいるからです。
そういう場合は、制作時に作家が傍らに置いて参考にしたと思われる図鑑や資料などから絵画教室の担当者が名付けたり、展覧会に出展する際に新たに名付けたりしていたようです。
作品によっては表記揺れが発生していて、展覧会によってタイトルが異なるなんて場合もあり、この《人魂》はそのタイプ。

作者の山崎孝さんは、人間の絵をよく描きます。といっても、描かれる人間に目鼻口がはっきりそれとわかる形で描かれることはなく、大きくて少し歪んだ丸い輪郭の内側に小さな円がびっしり描かれたゴルフボールのような形。それが人の顔なのだそうです。そこにヒョロヒョロ〜っと線などが付け足されていたらそれが体。
そういう認識でいたので、この作品もいつもどおり人間を描いているのかしらと思いながら、映像作品の中では「くらげ」のように水中を漂う存在として使用させてもらいました(※映像を作っているとき、この作品のタイトルを知らなくて、「くらげのように動いているけど実は人間を描いた絵かも知れない」という関係性も面白いと考えて)。

そのあと、映像に登場するだけではなくて絵画作品そのものを2階に展示することに決まったので、そこで初めてアーカイブの作品情報を閲覧したらタイトルが《人魂》……。
「見たまんまじゃん!!」

この「人魂に見える絵のタイトルが本当に《人魂》だったことに意外性を感じて驚く」というちぐはぐな反応は、なかなか珍しい体験じゃないかと思うのですが、とにかく自分の先入観を打ち砕かれてそれなりに衝撃を受け、同時に反省しました。
そして、絵画に合う曲を選ぶ上でそのインパクトが激しく影響した結果、まんまと人魂っぽい曲を紐付けていましたとさ。

低いリバース音が小刻みに重なりぞわぞわと鳴る曲は、「ひゅ〜どろどろ」というステレオタイプな肝試し的効果音を連想させます。
途中で唐突に、パチクリと瞬きするような可愛らしいジングル音がほころびのように挿入され、それが「怖怖とした雰囲気だがところどころ茶目っ気が覗く」という私の持つ孝さんの絵画作品のイメージとぴったり重なりました。

無事に展覧会が終わり、「人魂に見える孝さんの絵が本当に人魂を描いたものだった」という意外性からも学びを得たな〜という感慨の余韻が抜けきらないうちに、みずのき絵画教室の講師を勤めていた西垣籌一さんが指導の様子を綴った『無心の画家たち』という本を読み始めました。
するとそこには孝さんの《人魂》がカラー図版入りで紹介されていたのです。作品タイトル《歩く人》として……。
「どっちやねん!!!」

このあやふやな感じ、楽しいですね。
ちなみに、本ではこの絵画にまつわる西垣さんと孝さんのエピソードが紹介されており、それを読む限り《歩く人》というタイトルの方が相応しいのではないかと個人的に感じました。とはいえ、本当に人魂を描いたのかも知れないし、どっちのタイトルも好き。


・二井貞信《無題》

曲:半野田拓『5CDS』CD3 トラック15

《人魂》のように、作者本人ではなく関係者が作品のタイトルをつけることがある一方で、タイトルをつけないまま保管されてきた作品もあります。例えばこちら、タイトルは《無題》なのです。
《動物》とか《花》とか《静物》といった大雑把なタイトルをつけられた作品がたくさんあるのに、どう見たって雪だるまに見えるこの作品に《雪だるま》とつけなかった。たまたまなのだろうけど、そこにとても興味を引かれました。

二本の木に挟まれてポツンと存在する雪だるま。
誰かが人里離れた深い森に分け入って作った雪だるまなのか?
それとも公園なんかの木の生えた場所で、人間の生活に寄り添う形で作られた雪だるまなのか?
あるいはこれは誰かが作った雪像なんかではなくて、雪だるまの形をした架空の動物だったりするのか?
それどころか雪だるまというのはそもそも山奥に生息しているこんな姿の動物を見た人間が、雪を使ってうり二つに写し取ったことが起源だったりするのか??
まさか宙に浮かんでいる地球外生命体の可能性もあったりする???
……タイトルが曖昧にされているだけで、これだけ次々と妄想することができます。

そうやって様々に想像できるチャンスを奪いたくなかったので、この作品にはメロディやリズムのある楽曲ではなくて、「雪が積もり、しんと静まり返る中で時折、小枝がパキッと鳴る音が響く情景」を切り取ったような、効果音的で静かな曲(曲と呼んでいいのか?)を当てました。本項で最初に紹介した《ふくろうの森の物語》と同じで、鑑賞者に作品の内側に入り込んで描かれたものと対峙してもらいたかったのです。
それにしても、そんなイメージにピッタリはまる曲ですら難なく見つかってしまう半野田さんの懐の広さよ…。


・小笹逸男《ゾウ》

曲:半野田拓『5CDS』CD5 トラック16

タイトルに関連した選曲の話をもうひとつ。
私はこれまで複数回にわたり、みずのきの絵画作品をアニメーション映像の素材として使わせてもらいましたが、いつも画像データを見ていただけで各作品のタイトルを知る機会はありませんでした。
今回、展示する作品を選ぶに当たり、タイトルを添えられた状態のアーカイブを初めて拝見してみて、

  • タイトルを知らないままに鑑賞するからこそ想像力を刺激されるパターン

  • タイトルを知った上で鑑賞することで、より想像力を刺激されるパターン

があると感じました。
自分の中で後者に当てはまる代表例がこの《ゾウ》です。

会場で二人の鑑賞者が、曲を聴くことのできるタブレット端末を片手に、この絵を観ながら次のような会話を交わしていました。
ーーーーーーーーーー
「これは何の動物や?」
(端末に表示された情報を見て)「《ゾウ》さんやて」
「これがゾウ」
「どこがゾウなんやろ」
「ここが鼻ちゃう?」
「あー、せやな。言われるとゾウや」
「なんとなくわかるな」
「こう、目玉が垂れて体からこぼれ落ちとるんやろ」
「えっ!?」
「ん?」
ーーーーーーーーーー

一人は薄橙色の部分を見て「鼻を持ち上げているゾウ」と認識したのに対して、もう一人は黄土色の部分を見て「鼻を下ろしているゾウ」と認識し、そこから薄橙色に塗られた空中に目玉がこぼれている様子だと思ったわけです。
《ゾウ》という動物が題材だと知った上で同じ絵画を見ても解釈が噛み合わない状況に出くわして、私の脳内では拍手喝采。作者と鑑賞者のどちらからもいやらしい作為を感じないことがとても痛快でした。
自分としても、シルエットを見ると何となくゾウだとわかるけど具体的に考え出すと混乱してくる作品だと感じています。


さて、選曲について。
この曲は、絵に描かれている動物が何なのかを当てるクイズ番組という設定で紐づけました。
前半は解答者が頭を悩ませるシンキングタイム。
3分の2くらい進むとゾウの鳴き声のような音が大ヒントとして入ってくるので、そこで「ピンポーン!ゾウっ!!」と答えが判明するようなイメージです。
このゾウの鳴き声のような音があまりに見事にハマるので、半野田さんの曲は今回の展示に合わせて書き下ろしてもらったのだったっけ?と錯覚せずにはいられませんでした。


いっそタイトルつけてまえ

ここまで書いてふと思ったのだけど、作品とタイトルの関係が曖昧なことを逆手に取って、参加者がみずのき作品にタイトルをつけるワークショップがあったら面白いかも。

  • まず展示期間の前に一度ワークショップを開いていくつかの作品にタイトルをつけ、その中から展示する作品を選び最初の展示空間を作り上げる。※もちろん作品の側にタイトルを提示、名付けた理由も添えるなどする。

  • 会期中に参加メンバーを変えてワークショップを再度行い、展示している作品にタイトルをつけ直す。※タイトルの変遷に合わせて展示位置の変更を行ったりもする?

それを数回にわたって繰り返すことで、タイトルから受ける印象が作品の展示や鑑賞にどのような影響を及ぼすか感じられるのではないか。

  • ワークショップを開かずに、来場者が思いついたタイトルをアンケートのように記入して館内ポストに投稿する形式でも良いかも。※その場合、作品の周りに掲示するタイトルと理由が日に日に増えていく。


『みずのき動物園』に生息するような、種類のはっきりしない動物がこの企画にうってつけであるのはもちろん、福村惣太夫さんの描く抽象的な風景画なども想像の幅をひろげてくれるので持って来いだと思う。

山本一男さんは、ご自身の生活環境が作品に色濃く反映されるようなので、それを知るか否かで同じ絵画から受ける印象が全く変わる。故にこれまでタイトルの表記揺れが激しかった。
その解説をパネルなどで添えて表記揺れの実態を伝えるなどしても意義深いのでは。※もちろんプライバシー保護に細心の注意を払う必要があるけれど。

同じ構図の《家》を何十年も書き続けた堀田哲明さんの作品から、それぞれの《家》にまつわるドラマを(勝手に)読み取ることができないか。
ある夜に自分の部屋にいない堀田さんを施設の職員が探したら運動場で月を見上げていたとか、屋根に登って座っているので尋ねたら「星が見たかったンや」と答えたなどのエピソードを添えてから様々な《家》を見ると感じ方が変わるかも知れない。

『みんなのみずのき動物園』の来場者の中に、展示してある動物すべてに独自の設定を与えた女の子がいたらしい。
絵が描けなくても文字のリアクションが展示作品に昇華されていく参加型の鑑賞の場を設けることはなかなか楽しそう、などと無責任に夢想した。


【続く】


阿鼻叫喚!地獄絵図ライブ?!

展示期間の最終日には、二階の展示室で半野田拓さんによる即興演奏ライブが30分ずつの二部制で行われました。
「阿鼻叫喚!地獄絵図ライブ」とは少し物騒な見出しですが、これは当日のライブで会場が阿鼻叫喚だったわけでも地獄絵図だったわけでもありません。
会期中に半野田さんにライブをやってもらいたい、という話になった時、「半野田さんのライブはインプロヴィゼーション(即興演奏)なので、どういう内容になるかわからない。最近だと、拾った木の枝でギターを叩き続ける演奏をしていた。子どもを連れて行きやすい雰囲気のチラシで告知してるけど、最初から最後まで轟音ノイズを撒き散らす演奏になる可能性もある」ということから、観に来てくれた子どもたちが泣きわめいて地獄絵図が繰り広げられるかも知れない…という、企画段階に出た【可能性の話】です。
個人的には、そうなったらそうなったで面白いな☆と思っていましたけど(笑)

実際のライブはどうだったかと言うと、二部制のうち第一部は(自分は遅刻したので途中からでしたが…)、逆回転したギターの音を多用して素直に気持ち良いと感じられる柔らかい演奏から、バシバシとアタックの強い音が花火大会のクライマックスのように絶え間なく鳴り響く激しい時間まで(ガラスが震えてビリビリと音を立てていた)、とても幅のある演奏でした。

上のリンク先にアップされた動画はライブ中でも特に穏やかな時間を切り取っていますね。気持ちいいい~~~♪
大きな窓から亀岡の街や遠くの山が見えるみずのき美術館の特徴も良い方向に働き、室内の壁に展示してある絵画の動物たちだけでなく、屋外で活動する現実のカラスや雀たちもライブの一部として楽しむことができました。
昼間は逆光ぎみになるので、展示空間が額縁となって窓から見える景色や演奏する半野田さんを飾っているようにも感じられました。自然光なのに、暗いライブハウスでステージだけが明るく照らされるようでもあり。

第一部は遅刻したので、会場入口にあるエレベーターホールに立ったまま覗くように聴いていたのですが、第二部は客席に並べられた座布団に正座して堂々と真正面で聴きました。
第二部の演奏は第一部よりも野性味溢れる内容で、激しい音を詰め込んだ塊が四方八方に浮かんでは爆ぜ、浮かんでは爆ぜ、自分を中心にして音の弾幕に囲いこまれるような印象。
目をつむって音に身を任せると、座布団から体へ伝わってくる音の振動と座布団へ向かって伝わってゆく自分の血液の脈動がポリリズムのように作用しあって妙な気分になりました。足元がグラグラ揺れて突然床がスッとなくなったように感じることがあり慌てて目を開けると目の前には赤ちゃんの笑顔。

そう、今回のライブで一番印象的だったのは、目を開けるたび視界に飛び込んでくる前の席にいる赤ちゃんが最初から最後までとても楽しそうにしていたことでした。
甲高い打撃音のような鋭い音が、そこそこ大きな音量で鳴り続ける中で、お母さんに抱っこされながら笑顔でキャッキャと喜ぶように音を浴びて、終盤にはスヤスヤと気持ち良さそうに眠っていたのです。
子どもの敏感な耳には音量が少し大きかったかも、という反省点はあるものの、子どもの集中力に配慮して演奏時間を短く設定したプロデューサー中本さんの読みが見事に成功したと感じました。
それにしたって、子どもの反応はいつだって予想を裏切って驚きを与えてくれますね。

『みんなのみずのき動物園』で展示に使わせてもらった半野田さんの楽曲は、自分の好みの問題で既存曲の中でも音楽的な構成がしっかりしてるものを選びがちでした。その雰囲気を期待していた方はメロディらしいメロディのないライブに面食らったかも知れませんが、そうだとしても体験として楽しんでもらえていたのではないでしょうか。
半野田さんお疲れ様でした!!


固いカエル、枠組みを超える

最後に、本日で公開期間が終わる塗り絵の映像「みんなでみずのき動物園」にこめたメッセージをひとつ。

みずのき美術館×浦崎力「みんなでみずのき動物園」


展示の最終日は現地へ赴き、半野田さんのライブの合間に、たくさんの来場者アンケートを読ませていただきました。
不満点も含めてどの感想も嬉しかったのですが、その中でおそらく美術系の受験生が「受験のための絵ばかり練習して絵が固い感じになってしまっていたが、この展覧会で視野が広がった」というようなことを書いてくれたのが特に嬉しかったです。
壁に貼られた塗り絵の中からその方が塗ったカエルがどれか教えてもらったら、美しくて魅力的ではあるけれど、確かに「固い」と感じてしまいました(失礼)。

塗り絵の映像のラスト直前で、積み重なった座布団の上に気持ち良さそうに座っているカエルがその「固い」カエルです。
みずのきの絵と出会ったことで、受験用とは違うスタイルの絵も楽しく描いてほしい。
そういう想いをこめて、みずのき美術館内を巡って辿り着いた2階の窓枠から、元気よく外へ飛び跳ねる演出にしました。


無理やり歪めて作られた窮屈な型を唯一の正解と妄信して大勢で崇めるのではなくて、なるべく多くの人が自力で自分ならではの答えを見つけ出す余裕が持てて、他人の答えと並べても表面的な優劣で比べられずに済むような方向へ向かってほしい。
不毛な罵り合いや足の引っ張り合いから抜け出して先に進みたい。でないと、つまらんス。

少しでもましな世の中になりますように。

良いお年を( ´ ▽ ` )ノ🌼


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