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何をもって作家とするのか。

小説家になりたいなどと言ったら、兼業しないと生活できないと忠告されるだろう。実際のところ、他に仕事を持ちながら小説を書いている作家諸氏は多いに違いない。もっと言えば、純文学作品をメインに書いて生活を成り立たせていらっしゃる「純文学作家」は、ほんのひと握りほどかも知れない。それを承知のうえでなお私は言ってみたい。純文学作家になりたい!

もちろん、若くないから断言できる。これからパートナーと家事分担の相談を始める訳でもないし、次世代を育てる役目はすでに終えた。父も母も逝ってしまった。誰かを養うための生活費を稼ぐ必要がない。時間はたんまりある。若さがないのが最大の欠損ではあるけれど。

自分より若くて、小説を書いている人なんていくらでもいるのだから、「老兵は死なず、消え去るのみ」か?とすねてみる。(恥ずかしながら「」内の言葉はダグラス・マッカーサーが退任する際の演説で発せられたと初めて知った)老いを意識すれば、首を垂れて小さくなるしかなくなる……
それなのに、なお書き続けようとするのはなぜか?たまに立ちどまって自分に問うたこと数知れず。その時々で無難な答えを引き出し納得してみるも、いまだに大正解!には辿り着いていない。そして今日また、その問いに襟首をつかまれて揺さぶられている。
はて? 私はどうして純文学作家になりたいのだろうか?

冒頭に述べたとおり、最早小説を書いて食っていこうと思っているわけではない。じゃあ、本を出したい? KDPでセルフ出版はすでに果たして、その経験からいくらでも本は出版できると思ったし、手ごろな小冊子を作って文学フリマ(まだ一度も参加したことはないが)に参加することもむずかしいことではない。
とどのつまり、目指すのは文芸誌の新人賞なのだ。書き上げて応募したいだけではなく、ある程度の評価をされたい。それ以上具体的にここに書くのはなんとも下世話になるから控えるけれど、○十年書き続けてなお私の中で五大誌の存在というのは絶大なるものだ。文芸誌の新人賞受賞作品は、私にとって煌々と輝く北極星であってほしい。読んでガッカリしたくない。(私や誰かがガッカリしても、別の誰かは素晴らしいと評価するのだから、その価値は絶対ではないのがまた困りものだが、「私が」ガッカリ、とここに主語「私が」を持ち出すのは大それた物言いかも知れない。新人賞は、海のものとも山のものともつかない、しかし大いなるものによって与えられるのだから。けれどそんなふうに言ったらそもそもちっちゃな自分なんぞが小説など書いていられない……)芥川賞候補作品はほとんどがいまだに五大文芸誌から選ばれる。それらの小説を読むと、時代の潮流―編集の意向だとしても―がわかる。いくら老人になったとしても、いくら芥川賞が新人作家に与えられるとしても、それらを追っていくことができないわけではない。何歳になろうが読むことはもちろん、創作なのだから書くことだってできる。

なぜ純文学なのか?それもまた馴染みのある問いだろう。デビューするチャンスは何も五大文芸誌に限られていない。小説にはさまざまな種類、ジャンルがある。
これまで純文学以外のジャンルに挑戦してみたが、自分に書けるものと書けないものが徐々にわかってくる。才能がある方はどんなジャンルでも書けてしまうのだろうけれど、そんな能力は私にはない。エンターテインメント作品については良い結果が出なかった。自分には純文学作品が合っているーそう思い込んで〇十年以上純文学と向き合い続けている。すぐれた(と評価しているのは誰なのか、権威なのか何なのかわからないが)作品を読めば、心が浮き立つ。感動はエネルギーになって自分も書きたくなる。書き上げて応募する。落選。落胆。そして復活……ずっとそのくり返しだ。もしかしたら、自分は死ぬまで同じことをやり続けるのかも、知れない。

それでは、何をもって作家と言うのか?
この問いには主語がない。they なのか、Iなのか、それとも you? we?もしかすると nobody knows かも知れず、すべてかも知れない。主語が自分から遠く離れるほど、手が届かなくなる気がしてくる。それならば、主語を"I” にしてしまえばいい。創作に真摯に向き合うことが作家だと、私は思う。それなら私はすでに作家だということになる。いや、これは気休めか。orz 

芥川賞受賞作が決定するのは7月17日。春に応募した(私は1つ)文芸誌の新人賞では、最終選考に残ったか否か判明するのが、どうやらその日から数日中らしい。芥川賞の候補に残られた作家の方々はドキドキが終わるだろうが、ワナビはそこからドキドキが始まる。

今年も祈るようにして待つしかない。



万条由衣

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