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中江広踏の連載小説のまとめ他
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#小説

申叔舟の航海(小説)

                             中江 広踏                      「府事様(ブサニム)!」と叫ぶ、護衛官尹昌儀の甲高い声に振り返るのと、顔の横を矢が通り過ぎるのがほとんど同時だった。幸い、矢はそれたが、矢の風切音が申叔舟の聴覚ではなく触覚として感じられるほどだった。危ういところだった。日本語、朝鮮語、明国語、琉球語の怒号が乱れとんで、屋敷中が大混乱になった。客人たちは散り散りに避難し、警護の武士たちは矢を放ったものを手分けして捜

ひきこもりの日々に

世間では、「緊急事態宣言」とか「都市封鎖」とかいう、おどろおどろしい言葉が飛び交っていて、まさに開戦直前の日本はこうだったんじゃないかと思わせます。それもこれも、現在、世界を覆い尽くしている、恐ろしい新型コロナウイルスのせいです。今この時も、ウイルスとの戦いの最前線で奮闘している医療関係者の皆様には改めて感謝と激励のエールを送りたいと思います。 後方支援をする私たち一般市民としては、一斉に「ひきこもる」、つまり自宅待機をすることが一番なんですが、経済との兼ね合いもあって、政

「連載第一回」

 さっきから篠笛と鉦の音が聞こえていたが、一緒に聞こえていた軽やかな小太鼓の拍子が早くなり、さらに腹に重く響く大太鼓の音が加わって大きな歓声が上がった。だんじりが御城内の三の丸に入ったようだ。町の人たちは、ひと月も前から、この日を目指して稽古していたのだろう、御城下の各所でだんじり囃子が聞こえていた。今日、ようやく本番の日を迎えて、みんな高揚しているようだった。無理もない。町人たちが城内に入れるのはこの祭りの時だけだったから。  「早いものだ。ここで伝蔵と初めて会ってから、

「連載第二回」

 加藤清正の虎退治の話以来、朝鮮というとすぐに虎を連想するのはこの国の人々の習いになっていたから、お咲きも鼓二郎も、虎と聞いて、一層、耳をそば立てた。伝蔵が藩の先輩たちから聞いた話では、倭館の塀を飛び越えて虎が侵入する事は何度かあったそうである。倭館の番犬が何頭も喰い殺された。そんな時には、倭館の人間が数人で銃や刀を持って退治に出かけるのだが、ある時、二頭も出現した虎と大格闘を演じて、大怪我を負いながらも見事に仕留め、皮を剥いで、口上書とともに国元の対馬に送り、肉は焼いて皆で

「チョン・ヤギョンなんて知らない」連載開始のお知らせ

批評家に最もふさわしい資質を持っているのは詩人である、とボードレールが言いました。なるほど。ここで吉本隆明や大岡信の顔を思い浮かべた方もいるでしょう。ボードレールは正しい。では、詩人・批評家に作家を加えた三位一体の人物となると誰だろう。外国の事はよく知らないので日本でいうと、佐藤春夫かな。いやいや、私は伊藤整と中村真一郎の両人を挙げたいと思います。伊藤整は、その名を冠した文学賞があるから一般にも知られていると思いますが、中村真一郎はどうかな? 実は、池澤夏樹さん個人編集の日本

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第一回」

               1  「仙石部長!」と呼ばれて仙石さんが振り向くと、そこに児玉くんが笑顔で立っていた。児玉くんは仙石さんの部下である。仙石さんの若い頃には役所にいなかったタイプだ。広告代理店かテレビ局にでも勤めているような洒落たヘアスタイル。細身で仕立てのよさそうなスーツを着ていた。ぴかぴかに磨いた先のとがった靴をはいている。チャラチャラした男だなというのは仙石さんが初めて児玉くんに会った時の印象で、実は、仕事のよく出来るまじめな好青年であることは、今では仙石

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第二回」

                5  60歳での退職を決意した仙石さんがしたのは、定年に関する情報を収集することだった。まず本を読んだ。仙石さんは昔からブッキッシュな人間だった。とりあえず水に飛び込んで泳ぎを覚えるというよりも、教則本で水泳に関する理論を学んでから海や川に入るタイプだった。これは、幼い頃にいきなり兄に川に放り投げられて溺れそうになった経験からきているのだろう。それから、何か新しい事を始めるにはまず入門書を読む習慣ができた。そしてこの時に仙石さんが読んだのは、

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第三回」

                  8    社葬が終わって、仙石さんは杉本さんに昼食に誘われた。店を選んだのも杉本さんだった。この周辺のことは仙石さんよりも杉本さんの方が詳しかったから。二人が入ったのは居酒屋だった。昼は、近所の勤め人向けに定食を出している。杉本さんは、南教授の自宅を訪れた時に、他のゼミ仲間らと何度かここに来た事があるという。南教授みずから手料理を振る舞うこともあったが、いつもいつもごちそうになってばかりもいられなかったのだそうだ。「杉本さんのおすすめの店

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第四回」

                  11  仙石さんが南さんと再会したのは、仙石さんがS市の職員になってから8年後のことだった。二人とも30代に入っていた。南さんは、市役所主催の市政施行30周年記念の市民パレードやコンサートや講演会などの各種イベントの企画運営を委託された広告代理店の担当社員として仙石さんの前に現れた。S市側の責任者が長谷部さんで、仙石さんは長谷部さんの下で一部員として働いていた。久しぶりに会った南さんは見違えるような人間になっていた。大学時代の、仏文学専攻

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第五回」

                    13  杉本さんからデートに誘われた時に、きっと南さんの話をもっと聞きたいのだろうと考えた仙石さんが、約束の日までの数日間に回想していたのは、ざっとそのようなことだった。おかげで半ば忘れていた様々なことを思い出すことができた。特に大垣さんとの最後の出来事の想起は仙石さんをいまさらながら幸福感で充たした。スイカに塩をかけるように、乃里子さんへの罪の意識がまざりあって、その記憶はさらに甘くなった。あの時、たぶん、杉本さんはまだ生まれても

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第六回」

                  16  この杉本さんとの「初デート」での会話を、その後も仙石さんは牛が反芻するように何度も頭の中で再生することになった。あらゆる記憶がそうであるように、その会話は再生するたびに仙石さんの脳内で無意識のうちに少しずつ変容していったのだが、もちろん、仙石さんはそれに気がつかなかった。なにしろ無意識だから。それにしても、仙石さんは視覚よりも聴覚の発達した人間なのだろうか。高校の時の選択科目では音楽ではなく美術を選択したのに。仙石さんはその「初デ

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第七回」

 第四章「丁若鏞とその時代」はこんな内容だった。丁若鏞は、1762年、英祖38年に京畿道で生まれた。牧使を務めていた父、丁載遠は、この年に隠退している。兄が二人いた。若詮と若鐘である。三人の兄弟は、いずれも神童と呼ばれた。若鐘は朝鮮天主教界の大立て者となり、若詮は博物学者として多くの著作を残した。英祖とそれに続く正祖の時代は李朝の変動期だった。秀𠮷とヌルハチの侵攻で荒廃した国土はようやく回復し、商品貨幣経済も浸透しつつあった。その時期に登場したこの二代の国王は、いずれも英明な

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第八回」

                  21   仙石さんと杉本さんは、韓国語の個人授業(仙石さんは「デート」だと思いたがっていたが、)だけをしていたのではなかった。何度か会ううちに、互いにすこしずつ自分の過去や現在の生活について話すことになった。そして、年齢差や社会的立場を越えて、互いの心の距離をせばめていった。少なくとも仙石さんはそう信じた。しかし、いろいろと話をした後で、話題が仙石さんのS市役所での仕事に移った時、仙石さんがまず話題にしたのは長谷部さんの事だった。長谷部さ

チョン・ヤギョンなんて知らない 「第九回」

                最終回                  24  また淫らな夢を見てしまった。仙石さんは思わず股間に手を伸ばした。ペニスは硬く勃起していた。まさか、中学生の時のように夢精していないだろうな。もうすぐ還暦だという男が。触ってみると、どうやら夢精はしていないようだった。仙石さんはほっとすると同時に、夢精するほどの精力が自分にはすでに失われていることを少し残念に思った。仙石さんが杉本さんの夢を見るようになったのは、杉本さんから韓国語の個人レッスン