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「連載第一回」

 さっきから篠笛と鉦の音が聞こえていたが、一緒に聞こえていた軽やかな小太鼓の拍子が早くなり、さらに腹に重く響く大太鼓の音が加わって大きな歓声が上がった。だんじりが御城内の三の丸に入ったようだ。町の人たちは、ひと月も前から、この日を目指して稽古していたのだろう、御城下の各所でだんじり囃子が聞こえていた。今日、ようやく本番の日を迎えて、みんな高揚しているようだった。無理もない。町人たちが城内に入れるのはこの祭りの時だけだったから。

 「早いものだ。ここで伝蔵と初めて会ってから、もう十五年も経ったのか。」

 鼓二郎は小さなため息を漏らして、庭の梅の枝越しに見える天守閣の方に視線を上げた。岸和田藩岡部家5万三千石の天守である。しかし鼓二郎が見ていたのは目の前にある現実の城ではなかった。現実の城と二重写しになった十五年前の城の幻影だった。今よりも十五年若かった梅の樹の下には、やっぱり十五歳若かった鼓二郎とお咲がいて、その横に伝蔵がいた。今と同じように季節は秋だったから梅の花は咲いていなかった。でも、お咲きの笑顔は梅の花よりも可憐だった。あれは確か、対馬藩の御重役である雨森芳洲様の御名代として、伝蔵の父親が父と兄を訪ねて来た時だった。伝蔵は、いい機会だからと、父親について京都や大坂・堺を見物してから岸和田へ来た。父親がお使いの役目を果たしている間、伝蔵を祭の見物につれ出したのは鼓二郎とお咲きだった。城のすぐ横に大坂から堺を経て紀州に達する紀州街道が通っている。店の両側には米問屋、酒問屋などの大店が軒を並べているのだが、その日は祭りの日で、何台ものだんじりが集まって、紀州街道は見物人で身動きも出来ないくらいだった。だんじりが次々と城内の三の丸に宮入するのを見物しながら、伝蔵は対馬から大坂までの道中での出来事を面白おかしく話してくれて、せいぜい堺や大坂くらいしか知らないお咲きや鼓二郎を羨ませた。自分たちとさほど年齢の違わない伝蔵が、自分たちには想像もつかないほどの諸国を旅して様々な経験を積んでいるのだ。伝蔵の話を聞くお咲きの瞳は輝いていた。お咲は、会ったばかりなのに、伝蔵が好きになったのではないか。いや、思い過ごしかもしれない。でも、皷二郎にはそう見えたし、お咲きのそんな姿は鼓二郎の気分を暗くさせた。

 「俺は今嫉妬している。部屋住みの次男とはいえ家老の息子がなんと女々しいんだ。お咲きはただの行儀見習いの大庄屋の娘じゃないか。」

 そんな自覚が、冷静さを取り戻させるのではなく、さらに鼓二郎をやりきれない自嘲に追い込むのだった。行儀見習いとしてお咲きが十三歳で家老である嶽家に来て以来、兄妹のように一緒に育った鼓二郎のお咲きを見る目は、いつの間にか違うものになっていた。いつか父親に頼んで、お咲きを妻にしたいと思うまでになっていたのである。身分が違うと言っても自分は次男坊の部屋住みだし、お咲きの実家は裕福で、百姓とはいえ名字帯刀を許されている家柄だった。どこか、藩内か他藩の家柄のつり合った武家の養女にしてしまえば、お咲を妻にすることは可能なはずだった。でも、まだ父親や兄にこの話はしていなかった。まだ、お咲き自身の気持ちを確かめていなかったからである。それどころか、鼓二郎はまだお咲に自分の気持ちを打ち明けてもいなかった。もし断られたら、繊細で傷つきやすい鼓二郎の自尊心は耐えられなかっただろう。だから、表面上はいつも、お咲きの兄のように振舞っていた。

 隣では、伝蔵とお咲きとの楽しそうな会話が続いていた。鼓二郎は半ば上の空で二人の会話を聞いていたのだが、お咲きが「雨森芳洲さまって、どんな方なんですか?」と伝蔵に尋ねたのが耳に入って現実に戻った。父や兄が尊敬する芳州という人物には皷二郎もかねて興味があったからだ。伝蔵はしばらく考えてからこう答えた。

「芳州さまはとても偉い御方です。今では藩のご重役ですが、元々は私たちと同じ通詞でした。いや、同じじゃないな。わざわざ殿様が他国からお招きした儒者だったんだから、ただの通詞とは身分が違います。元々は近江のお生まれだと聞いています。」

 伝蔵の話は長くなった。要約するとこうなる。雨森芳洲は、まず京都で医学と儒学を学んだ。その後、十代で江戸に下って、木下順庵の門に入った。後年、朝鮮との外交政策を巡って対立することになる新井白石よりも門人としては先輩であったが、白石の方がずっと年長で、学問的にも順庵が認めていたのは白石の方だった。芳洲も白石には頭が上がらなかった。二十歳を過ぎた頃、芳洲は師の順庵の推挙で対馬藩に仕えることになった。もちろん通詞としてではない。当時、芳洲は朝鮮語はできなかった。対馬藩が順庵に推挙を頼んだのは、漢文がよくできる優秀な人物だった。当時の外交は漢文による文書の交換で行われていたから、明晰でしかも教養に溢れた格調の高い漢文を書ける人材が何よりも求められたのである。しかし、自らの学識や文章の才が白石に遠く及ばないことを自覚し、まだ若かった芳洲は向学心に燃えていた。仕官が決まると、対馬藩の許しを得て長崎に遊学して唐話、つまり中国語を学び、藩内の通詞たちからは進んで朝鮮語を学んだ。そんな芳洲が初めて釜山にある倭館に赴任したのは、三十代の半ばになってからだった。

 伝蔵は釜山の倭館についても説明した。しかし、この時、伝蔵自身は若くてまだ倭館に行ったことがなかった。その事を正直にお咲きに言った。だから、父親や通詞の先輩方から伝え聞いた話をすると。自分だったら、お咲きの前では知らないことでも知ったかぶりをするのにと皷二郎は思った。そんな伝蔵の素直さが眩しかった。伝蔵の言によると、倭館とは対馬藩の朝鮮屋敷である。江戸時代、諸外国に門戸を閉ざしていた徳川幕府は、朝鮮国と唯一正式な国交を結んでいたが、自ら外交をする事はなく、すべて対馬藩に委任していた。しかし、その対馬藩でさえ、豊臣政権の文禄・慶長の役の記憶をひきづる朝鮮政府の政策によって、朝鮮の都である漢城(ソウル)に立ち入る事は許されず、都から遠く離れた釜山に土地を与えられて倭館を建設し、ここで外交上の諸業務を行なった。また倭館には商館としての役割もあった。中国などの異国の文物は、長崎の出島からや薩摩を通じて琉球からも日本に入ったが、この釜山の倭館からも入ったのである。通詞の息子に過ぎない伝蔵は藩の内情をよく知らなかったのだが、対馬藩は、朝鮮との外交や貿易の利権を握ることで、本来の石高の数倍も豊かな藩になっていた。山ばかりの島でほとんど米を収穫できない対馬は、以前から倭寇の本拠地として朝鮮を悩ませていたのだが、そしてそのために、一時は朝鮮からの兵の侵入を受けたりもしたのだが、江戸時代になってからは、交渉によって、正式に朝鮮政府から定期的に米が入ってくるようになった。貿易品としては様々なものが対馬藩を経由して朝鮮と日本の間を行き交ったが、日本からは銀、朝鮮からは朝鮮人参と中国産の生糸が最も重要な産品だった。これらの対馬交易の日本における拠点になったのは、対馬藩の京都屋敷である。対馬藩は京都で銀を入手して釜山の倭館へ運び、倭館から持ち帰った朝鮮人参や生糸を京都で売りさばいた。対馬藩から銀を入手した朝鮮政府は、今度はそれを北京との交易に利用した。このように、対馬の倭館は当時の東アジア経済圏における重要な拠点のひとつだったのである。

 倭館の敷地は約十万坪で、中央の龍頭山を挟んで、東西にそれぞれ東館、西館があった。館と言っても、それらは単独の建物ではなく、それぞれが寺や神社や店鋪を含む、いくつもの家屋で構成される、まるで城下町のような建物群だった。倭館には男ばかり五百人ほどの対馬人が生活し、朝鮮政府との折衝や交易などの業務を日々こなしていた。一般人の倭館への出入りは制限されており、対馬人たちも倭館の外に出ることは許されていなかったが、実際には、かなり自由に付近を散策することを許されていた。しかし、対馬侍は村人との接触は避けた。かつての倭寇や秀吉軍の侵攻の記憶が、まだ人々から消えておらず、諍いになる事があったからである。この時、伝蔵はお咲きにこう説明したのだが、後年になってから、倭館の実態をよく知るようになった鼓二郎は、諍いの原因は、秀吉時代の悪い記憶というよりも、単に、村人が対馬侍から村の女を守ろうとしたからだろうと思った。朝鮮の女性と問題を起こして対馬へ戻された侍がかなりいたと、当の対馬藩の侍から酒の席で聞いた事があったからである。仲介する人間がいて、夜間、倭館の塀を超えて女性が入ってきたそうだ。発覚すると、朝鮮の掟によって、仲介者は死罪、女性は流罪になった。対馬の侍は罪に問われることなく、対馬に戻されたのだという。ただし、倭館の外で女性が対馬の侍と性的な関係を持った場合、女性は死罪になった。これらは当時の伝蔵も知っていたはずだが、当然ながら、お咲きには話さなかった。この時、伝蔵がお咲きに話したのは虎退治の話だった。(つづく)

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