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チョン・ヤギョンなんて知らない 「第四回」


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 仙石さんが南さんと再会したのは、仙石さんがS市の職員になってから8年後のことだった。二人とも30代に入っていた。南さんは、市役所主催の市政施行30周年記念の市民パレードやコンサートや講演会などの各種イベントの企画運営を委託された広告代理店の担当社員として仙石さんの前に現れた。S市側の責任者が長谷部さんで、仙石さんは長谷部さんの下で一部員として働いていた。久しぶりに会った南さんは見違えるような人間になっていた。大学時代の、仏文学専攻の文学青年風なのに旧制高校に憧れて寮歌をがなりたてたりもするといった、正体不明の雰囲気はなく、いかにも資本主義経済の流れに棹さして時代の先端に生息する広告マンでございますという、背中に社名ロゴの入った黒いスタッフジャンパーを着こなした、キビキビした言動の人物に変貌していた。全ての行事が無事に終了した後で、市役所側や代理店、その下請けのPAやイベント業者らで打ち上げが行われた際に、仙石さんは南さんと少し話をすることができた。 特に親しくもなかった人と久しぶりに再会した際に話す話題などは限られている。互いの簡単な現状報告と共通の知人らの消息。南さんはその時まだ独身だった。広告会社に入ってまず東京本社に配属されたが、数年で大阪の支社に戻ったこと。東京ではコピーライターをしていたが、今はプランナーという肩書きで何でも屋をしている。今回のイベントの仕切りもそんな業務の一環だというような事だった。イベントを企画するのではなく、本職のイベント屋さんを管理するのが主な仕事だという。その他、マーケティング調査もするし、ラジオやテレビのCM制作などもするけれど、全ては外注先の業者の交通整理のような仕事だということだった。ちょっと格好つければ、さまざまな分野の専門家を束ねるプロデューサーかディレクターの役割。あえて自分の本職は何かと言えば、パワーポイントを使って企画書を書くことかな。それと、プレゼンテーション。人前で堂々と心にもない出任せを言うのだけは上手くなったと南さんは笑った。

仙石さんも、自分は既に結婚していること、市役所に入ってから、役所の窓口業務をしたり図書館や市民病院の事務をしたり教育委員会に出向したりと、一通りの部署経験をしてから、最近、企画広報部門に移って長谷部さんの部下になるまでの話をざっとした。そして共通の知人の消息。京都大学の大学院へ進んで、塾講師のアルバイトなどをしながら学者としての道を歩んでいた荒川さんが、助教授はもちろん将来の教授職をも約束された上で、母校の専任講師に採用されたのをきっかけに、あの大垣さんと結婚したという話を聞いた。「そう言えば、同じ東洋史ゼミにいたのに、仙石くんは披露宴にも二次会にも来てなかったね。」と南さんに聞かれて、「うん、大学院に進んだ彼らとは、その後あんまり交流がなかったんでね。」と仙石さんは答えたが、内心おだやかではなかった。実は、仙石さんは二人の結婚を事前に知っていたのである。そして、自分が式に招待されないだろうことも前もって知っていた。教授から実の娘のように可愛がられていた大垣さんと結婚することが、荒川さんが教授の後継者になる条件だったのであって、荒川さんが母校に採用されたから大垣さんと結婚したというのは順序が逆だという事も仙石さんは知っていた。


 大垣さんとは卒業以来音信不通になった。大学院で修士課程を終えてから、学者の道には進まずに、どこかの高校の社会科教師になったらしいという噂だけを聞いていた。その大垣さんと仙石さんが再会したのは南さんとの再会の一年ほど前のことだった。まったく偶然の再会だった。その時、仙石さんは既に女の子の父親であり、奥さんの乃里子さんは二人目の子供を妊娠中だった。大垣さんはまだ独身だった。「仙石くん変わったね。ずいぶん男らしくなった。やっぱり父親になると人間は変わるものね。あのころはなにか頼りなくて混沌としていたけど、今はなにか目鼻がついた感じ。」そう、まぶしそうに仙石さんを見て言った。混沌というのは「老子」に出てくる怪物のことである。高校時代、仙石さんは「老子」と「荘子」を愛読していて、大学のゼミでもそんな話をしたことがある。大垣さんは、たぶんそのことを覚えていて、そんなことを言ったのだろう。「目鼻をつけると混沌は死んでしまうんやけどな。」仙石さんがそう言うと、「あっ、そうやった。ごめんごめん。変なこと言うてしもたね。」と大垣さんは笑った。大学時代にだって、大垣さんがこんなに打ち解けて話してくれたことはあっただろうかと仙石さんは思った。そんな風に昔を思い出していた時、いきなり大垣さんが真剣な表情で仙石さんに言った。「仙石くん、何も聞かんと、これから私としばらく付き合うてくれへん?」仙石さんは、はいと答えるしかなかった。大垣さんが仙石さんを誘ったのは、いわゆるラブホテルだった。思いもしなかった急な展開に、仙石さんは何も考えることができなかった。すべて大垣さんのリードに従って部屋に入った後、大垣さんは仙石さんにこんな話をした。

 「ごめんなさい、びっくりしたでしょう。まさか喫茶店でこんな話はできないのでここに来てもらったんやけど、これから私が話すことを聞いて、承伏できなかったらこのまま帰ってもらってもいい。あのスキーの夜みたいに、何事もなく別れましょう。でも、一応私の話をきいてくれる?」仙石さんは承諾した。大垣さんは言葉を選ぶようにしばらく下を向いていたが、やがて決心して話しだした。「私が、昔から思いついたことはすぐに実行に移す軽薄なところがある、男好きの女だという事は仙石くんも知ってるよね。昔は私のような人間を尻軽女って読んでいた。確かにそうなのよね。大学時代にも大学院時代にもいろいろあったし、教師になってからもいろいろあってね。勤め先の学校も二度替わったの。どちらも同僚の男性教師との関係が問題になったのね。どちらも妻帯者。ひとつは実体のないただの噂やったんやけどね。さすがに生徒とは問題は起こさなかったけど、ふふ。ごめん、真面目な話やったね。それで、その不倫問題は、どちらも父兄に知られるような表沙汰にはならなかったから、今でも教師は続けてる。でも、知ってる人はちゃんと知ってるの。そんな私を見て見放すどころか、大村教授夫妻がとても心配してくれたの。そして結婚をすすめてくれた。相手は、同じゼミにいた荒川くん。教授は、京大の大学院に行った荒川くんを今でも評価していて、大学に呼び戻して自分の後継者にしたいとおっしゃるのよ。まさか、私が荒川くんと結婚することが彼を後継者にする条件というわけじゃないんやけど、荒川くんは良い人だし、以前からずっと私に好意を持ってくれている事は知ってたし、男として魅力は感じなかったけど嫌いじゃないから、その話を受けることにしたの。でね、結婚したら、それを機会に教師もやめて、専業主婦になって良い奥さんになろうと決心したわけ。でもね、結婚の話が正式に決まって、式の日取りも決まって、その日がだんだんと近づいてくるにつれて、凄く不安になってきたの。婚約破棄して、このままどこかに蒸発しようかなんてね。そんな時に、偶然仙石くんに出会ったわけ。懐かしかった。喫茶店でいろいろと昔話をしている時に、あのスキーに行った日の事も思い出した。でね、やっぱり自分勝手に何でも決めてしまうわね、私。こう決めたの。今日、仙石くんに会ったのは運命だ。あの日、中途半端に終わってしまった事の始末をここでつけたい。そして、その後、私は荒川くんと結婚して、貞淑な奥さんになる。尻軽女は、今日で卒業ってね。仙石くんには本当に申し訳ないけど、これは私の人生の賭なの。そういうわけ。」最後の一言は、大垣さんらしくなく気弱な響きがした。

ずいぶん身勝手な話だし、荒川さんがあまりに気の毒だと思ったけれど、仙石さんは承諾した。結婚して一女の父親であり、奥さんは二人目を妊娠しているという現状にもかかわらず、仙石さんは「据え膳」を食べることにしたのである。目の前にいる大垣さんは、それほど魅力的な女性だった。そして、仙石さんもまた、自分の破廉恥な行為への言い訳として、この日を最後に、これからは一切、乃里子さんを裏切らないと決心したのだった。そして、その決心を仙石さんはその後ずっと守り通した。大垣さんと仙石さんは二度交わった。一度目はあのスキーの夜の続きとして、二度目は互いに30歳を越えた大人の男女として。そして人生最後の不倫として。行為が終わった後、大垣さんは、服を着ながら、仙石さんに言った。「仙石くんを結婚式にも披露宴にも招待しないわよ。これからは付き合いもしない。年賀状もなし。それでいいでしょ。」

 そんな事があったから、南さんが荒川さんたちの結婚式に出席したと聞いた時、南さんと大垣さんの間には何もなかったのかも知れないと仙石さんは思った。けれど、酒に酔っていたこともあって、やっぱり南さんに、さりげなくではあったが、こう尋ねないわけにはいかなかった。「大学時代、南くんは大垣さんとつきおうてたんと違うの?」南さんは苦笑いをした。「荒川と三人で映画を観たりしたことはあるけど、付き合ったことはないなあ。たまたま荒川がいない時に、学食で二人一緒に昼ご飯を食べたことくらいはあるけどね。だいたい、その頃から荒川が大垣さんの事を好きだという事は分かってたからね。ぼくとしては、面倒な三角関係になるのを避ける意識もあって、彼女とは単なる友達でいようと思っていた。それで、就職して僕が東京勤務になったのをきっかけに、彼女とのつきあいも自然に終わった。彼女は荒川と一緒に大学院に進んだ。後で聞いたら、彼女の修士論文の執筆を荒川が手伝ったりしたらしい。ずっと荒川の片想いやったわけやが、あの不器用で真面目な荒川としては、十年ぶりの恋が実ったことになる。大垣さんもやっと荒川の魅力に気がついたようやね。実に目出度い。仙石くんも知ってると思うけど、荒川は奈良の老舗の旅館の息子でね。今、実質的に旅館を経営している若女将である彼のお姉さんがなかなかの女傑でね。美人じゃないけど、さっぱりした性格で、優しいけれども気の強いところが魅力という女性なんやが、そのせいか、荒川は昔から気の強い女性に弱かった。ここだけの話やけど、ちょっとマゾっぽいところがあってね。ということで、大垣さんと結婚したんはええことやと思うな。当事、大垣さんはゼミの仲間内でもてもてやったらしいけど、仙石くんも大垣さんのファンやったんやないのかな?もう時効やと思うから言うけど、僕に大垣さんを紹介してくれた時、ゼミの仲間に大垣さんを狙っている男がいると荒川から聞いたけど、あれは仙石くんのことやなかったかなあ。」と、いきなり自分の方に話題の球が飛んで来て、仙石さんはちょっと焦った。でも、さすがに10年間も役所で鍛えられていたので、「いや、それは荒川が自分自身のことを言うたんやと思う。」とすぐに返球したのは、我ながらがいい対応だったと、仙石さんは思った。南さんはその返答に納得したようだったから。だから、「それよりも、南くんはまだ独身らしいけど、それは相手が多すぎて選択に困っているというということかな。」と、さらに変化球を投げる余裕さえ仙石さんに生まれた。「たくさん女性とつきあうのが幸せとは限らんよ。荒川みたいに、本当に好きなたった一人の女性と結ばれるのが一番だと思う。」と、その時の南さんは変に真面目に答えた。その南さんの暗い表情をみて、仙石さんは、これ以上この話題を続けることができなかった。でも、南さんと大垣さんの間に何もなかったとは、やっぱり信じることができなかった。あの大垣さんの性格と行動力を考えても。そして、自分はやっぱり、あのことをずっと根に持っていたんだと仙石さんは改めて知った。その日、南さんも仙石さんも悪酔いした。

        
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 そんな事があってから、仙石さんと南さんの交渉はしばらく途絶えた。再会したのは、それから更に10年ちかく経った後だった。時代は昭和から平成に変わっていた。南さんは広告代理店を退社して、建築家の安川さんと共同で「Y&M」という社名の、街おこしと街づくりを専門にするコンサルタントの事務所を興していた。そして、既に結婚していた。二人に久しぶりの再会をさせたのは、当時、S市の市長になっていた、仙石さんの元の上司だった長谷部さんである。街おこしや街づくりのコンサルタントというのがどういう仕事なのか、仙石さんにはよく分からなかったが、長谷部市長の一種のブレーンの役割を務めているようだった。長谷部さんは、あの市政30周年の各種イベントの運営総責任者だったから、イベントの企画と運営を担当する広告代理店の社員として現場で指揮をとっていた南さんとは、それ以来親しくつきあっていたようだ。二人が親しくなったのは、仙石さんの場合と同じく、どちらも無類の本好きだという共通点からだったらしい。特に、仙石さんがあまり得意ではない、SFや自然科学や建築やクラシック音楽などの分野で話があったという。長谷部さんはとにかく博覧強記の雑学の人だから、仙石さんの知らない分野のこともたくさん知っていた。いつだったか、たまたま長谷部市長、南さん、安川さん、仙石さんの四人で飲む機会があった。長谷部市長は公私とも多忙だったし、その頃は仙石さんはまだ課長だったか次長になったばかりだったかの時だから、本来は市長と直接話ができる立場ではなかった。たぶん、長谷部さんと南さんらの私的な飲み会に、ついでだからと仙石さんも呼んでもらったのだろう。南さんが、仙石くんは元気にしていますかと市長に聞いたのかもしれない。いずれにしても、その時の飲み会で、長谷部さんがこんな思い出話をした。

 「この南くんはね、広告会社時代に労働組合の執行委員をしている時、執行委員会で給与算出方法の話をしたんだよ。表にして説明したらしい。そもそも給料というのは、会社の売上から元払いを差し引いた粗利益から出すものだが、その利益のうち、労働者が分け前としてどれくらいもらえるかという労働分配率を仮に60%として、その額が人件費の総額になる。注意すべきは、この人件費は給料とは違うんだよね。人件費の中には、会社が負担すべき健康保険料とか社会保険料とか厚生年金とか、交通費なんかも入っているわけだ。将来の退職金のための引当金なんてのもあるね。つまり、ボーナスも含めて、各自がもらう手取り年収の金額が、会社が支払う自分の年間人件費じゃなくて、実際は、給料の少なくとも一倍半のお金を会社から受け取っているということになる。それに対して、社員一人一人が会社の利益に一体どれだけ貢献しているのかという話だ。これも注意しないといけないけれど、これは個人売上じゃなくて個人粗利益だ。あくまで利益の金額で考えないといけない。しかも、この社員個人の会社への貢献である利益金が、その社員が受け取る人件費と同じか多ければ、それで問題がないかというとそうじゃない。会社というところは組織で動いている。ドラッカーがいうように、利益は組織の外部で発生する。組織の内部で発生するのは経費だけだ。製造部門は利益の根源になる商品を生産するけれど、商品が実際に売れるまでは、単に経費を使っているだけだ。組織の外部で利益を稼ぐのは営業社員だ。けれど、会社という組織は営業社員だけでは回らない。経理や総務といった内勤の社員が存在する。かれらは利益を生み出さない。つまり、営業社員が彼らの分も稼がないと会社は回らないということだ。そこで、営業社員一人一人がいったいいくら稼いだら人件費に見合った額になるのか。そこでわかった事は、今、組合が要求している金額は、あまりに過大だという事。それだけの給料が欲しかったら、今の2倍くらいの利益を上げないといけない。南くんはそう主張したわけだ。とんでもないよね。これは全く経営者の論理だ。組合の立場というのは、組合員にはまず会社員である前に個々の生活があって、扶養家族もいる。彼らが世間並みの暮らしをして、趣味を楽しんだり自己研鑽もして、その上で、少しは貯蓄もできることで労働意欲もわき、それで会社の業績も上がるんだという理屈だから、まったく逆の発想だ。というわけで、南くんは、執行委員を首になった。」

 南さんは笑って、執行委員は首になったわけじゃなくて、1年で自分から辞めただけだと言ってから、今度は長谷部さんの話をした。南さんは、長谷部さんこそ経営者的発想の権化みたいな人で、市長になってからの長谷部さんは、まるで会社の経営者のようだと指摘したのだが、それは仙石さんにも大いにうなづけるものだった。ドラッカーを読むように仙石さんに勧めたのは長谷部さんだったし、役所のような非営利団体にこそマネジメントが必要なんだとドラッカーが言っていると教えてくれたのも長谷部さんだった。だから、市長になった長谷部さんが、市役所の業務サービスの全てに料金設定をした時にも、そこまでやるかとは思ったけれども、長谷部さんならやりそうだとも思った。もちろん、役所のサービスに価格をつけると言っても、役所を民営化したわけではない。今まで通り、一部を除いて、役所のサービスの大半は無料だった。でも、一般企業と違って役所の仕事を効率化するには、税金や国や県からの補助金などの総収入と市の事業の経費や人件費などの総支出がわかっているだけではだめで、その内容分析の判断の元になる市のサービスの料金表がないことが問題だ。市民にとっても、自分たちが支払っている市民税に比較して、市からどれだけのサービスを余計にあるいは不足して受けているのかが分かるし、市役所の職員に対しては仕事の効率向上と人事評価にも使える。そんなアイデアだったのだが、市役所の職員はもちろん市議会や市民からも反対意見が殺到して、この案は廃案になった。でも、市役所の仕事にこそ費用対効果の精査と効率性が必要なんだという長谷部さんの考え方は、長谷部さんが市長を辞任してからも、役所の職員の記憶に残った。気のせいか、長谷部市政の間、役所内の空気は緊張感とともに活気があったなと今でも仙石さんは思う。でも、それは後の話だ。この時はまだ長谷部さんは現役の市長だった。

 「今思えば、市長になりたてのあの頃は、私はビジネスマインドというものを誤解していた。効率こそが正義なんて思い込んでいてね。とにかくPDCAサイクルを回せ回せと言い続けていた。まさに、資本主義の権化でした。働け働けってね。私としては効率的に働いて生産性をあげろという意味だったんだが、長時間労働を奨励しているように思われてね。それじゃ職員の身体も壊れるし鬱病になってしまう。というわけで、最近は、もう少しいい加減ですよ。年をとったせいかな。要は、何のために仕事をするのかということだよね。」長谷部さんは、そう述懐した 「仙石くん流に言うと、人は孔孟だけだと疲れるから老荘も必要だということになるのかな。彼なんか、高校生の頃から老荘だったのを、逆にぼくが孔孟側にひっぱったのかもしれない。若い頃の仙石くんは、ちょっと茫洋として頼りなかったけれど、今では立派な役人になったよ。最近は自分探しなんてくだらんことが流行っているが、人は適職を探すんじゃなくて、生きるために必要に迫られてついた仕事で、一生懸命に義務を果たしているうちに、その仕事が天職になるんだよ。青い鳥はいつも身近にいるが、それを発見するには人生という旅に出ないといけない。出会うには時間がかかる。いや、これはなにも南くんが前の広告会社をやめたことを批判しているわけじゃないよ。会社をやめて街づくりのコンサルタントになった事は正しい判断だったと思う。これこそ、昔から建築が好きだった南くんの適職だよ。ぼくも期待している。」 「ありがとうございます。今では私もこの仕事が天職だと思っていますが、市長がおっしゃったように、あのまま広告会社で勤め続けていれば、いつか広告が天職だったと思えるようになったかもしれませんね。」そう南さんは応えたが、心からそう思っているかどうか仙石さんにはわからなかった。

 その夜に出た話だったか、あるいは、それからも南さんとは共同経営者である建築家の安川さんも交えて何度か飲んだことがあるので、それ以降だったかわからないが、南さんがこんな話をしたことを仙石さんは思い出した。そもそも南さんと安川さんが意気投合するきっかけにもなった話である。SFと建築、あるいは街づくりに関わる話だった。アメリカにジョン・ジャーディという建築家がいる。この人は特にショッピング・モールの建築で有名な人物で、日本でも博多の「キャナルシティ」や大阪の「なんばパークス」などを設計した。この人が若い頃、SFの世界の巨匠であるレイ・ブラッドベリに心酔していた。最初は、自分の作品の批評をブラッドベリに求めるだけだったのが、ジャーディの才能を認めたブラッドベリは、パートタイムのコンサルタントとして、ジャーディの事務所に通うことになった。ブラッドベリが言った。「知らない町に彷徨い込んで、すっかり方向音痴になって、さてどうしようかと慌てる。でも生命の危険はない。安心して迷子になれる。なんと素晴らしい体験じゃないか。迷子の美学。」これが、ブラッドベリとジョン・ジャーディがショッピング・モールを設計する際のコンセプトになった。南さんは、こんな偉い人たちと自分たちとは比較にもならないと謙遜していたが、この話はもちろん、高校生の頃からブラッドベリの大ファンだった南さんがブラッドベリ、ジョン・ジャーディが、事務所の共同経営者になった建築家の安川さんというわけだ。安川さん自身もまた、少年の頃からSF、特に、ブラッドベリのファンだった。こうして始まった南さんと安川さんの共同の事業は、当初の商業施設のコンセプトと設計の提案から、やがて、日本各地の自治体を対象にした、街おこしや街づくりの提案へと拡がっていった。

 「人が建築をつくり建築が人をつくる。という有名な言葉があるけれど、人が街をつくり街が人をつくるとは簡単には言えない。古代の難波宮から平城京、平安京。戦国時代の城下町。ナポレオン三世がオスマンに命じたパリ大改造からヒトラーやムッソリーニの新都市計画まで、権力者や独裁者たちが都市を計画することはあっても、実際に生きた街をつくり育ててきたのは、あくまでもその街の住人だ。とても、他所からやってきた一建築家やコンサルタントが「街づくり」なんて偉そうなことは言えない。だから、長谷部市長からS市の街づくりを手伝って欲しいと頼まれた時も、僕たちはすぐには返事をしなかった。S市のことを良く知らなかったし。でね、何度かS市を歩き回って、商工会議所とか青年会議所の人とか、いろいろな人の話を聞いた。お年寄りから小中学生までね。それらをレポートにまとめて長谷部さんに読んでもらった。自分たちなりの考えも付けてね。シンボルになる城こそないが、江戸時代の小藩の領域をそのまま受け継いだS市には歴史に裏付けられたまとまりと市民の愛郷心がある。単なる県庁所在地のベッドタウンじゃない。それを活かそうという趣旨だった。それで長谷部さんの出した結論は、僕たちが何か具体的な提案をするというんじゃなく、市として、有識者と市民が参加する街づくりの委員会のようなものを立ち上げて、ぼくたちはあくまでその委員会に助言をするというものだった。もちろん、僕たちはそれを受けた。委員会に助言をするのは僕たちだけじゃない。仙石くん、君にもいずれ長谷部市長から声がかかるよ。」南さんは、そう仙石さんに言って笑った。竹下内閣の「ふるさと創世基金」が話題になっていた頃だった。これも、今では遠い思い出になった。結局、仙石さんには長谷部市長から声はかからなかった。文教都市として自己規定したS市が「ふるさと創世資金」の使い道としたのは、市内に誘致した大学と共同で建設した中央図書館に収める書籍の購入費だった。それらの書籍の中には、きっと、ブラッドベリの小説も入っていたに違いない。         (つづく)


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