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申叔舟の航海(小説)

                             中江 広踏  
                 

 「府事様(ブサニム)!」と叫ぶ、護衛官尹昌儀の甲高い声に振り返るのと、顔の横を矢が通り過ぎるのがほとんど同時だった。幸い、矢はそれたが、矢の風切音が申叔舟の聴覚ではなく触覚として感じられるほどだった。危ういところだった。日本語、朝鮮語、明国語、琉球語の怒号が乱れとんで、屋敷中が大混乱になった。客人たちは散り散りに避難し、警護の武士たちは矢を放ったものを手分けして捜索したが、犯人は既に逃げた後だった。

 「府事様、お怪我はありませんか?」
 「大丈夫だ。これでも私は修羅場には慣れている。それにしても、日本で私を狙うものがいるとは思わなかった。犯人は捕まったのか?」
 「どうやら逃げられたようです。」
 「そうか。いずれにしても、今回はお前のおかげで助かった・・」

 「正使様!お怪我はなかったでしょうか?」

 申叔舟と護衛の会話は、この屋敷の主人である博多の豪商、嶋屋広右衛門の声に遮られた。

 「ああ、嶋屋さん、大丈夫です。この者のおかげで命拾いしました。厠にまで着いてくるなと言ったんですが、どうやら着いてきていたようです。」

 申叔舟は、流暢な日本語でそう答えて笑った。王の国書を持って、対馬島を経て、朝鮮では朴加大と表記する博多港に入港してからもう三ヶ月になる。朝鮮国からの使節が室町殿と呼ばれる足利将軍のいる京都に向かうには、博多、赤間関、兵庫の三カ所で、それぞれの地の探題や代官の点検をうけることになっていた。その間、京都と現地の間で文書が行き交い、京都からの許可証が届いて初めて次の港に進むことができる。朝鮮からの使節の船団が通行する瀬戸内海は海賊が横行する海域であるが、その海賊は、他面において、複雑な潮流の瀬戸内海を安全に航行するには欠かせない水先案内人でもあるから、京都の室町殿の通行許可証がないと、現地の代官や大名たちによる護衛だけではなく、水先案内人も得られないのだ。それにしても、三ヶ月はあまりに長かった。嶋屋もこのことを憂慮して、博多だけではなく、明や琉球の役人や貿易商たちも呼んで、申叔舟のために慰安の宴を開いてくれたのである。

 前年、室町幕府の管領である斯波義廉が朝鮮に使いをよこし、朝鮮国からの通信使の派遣を求めてきた。その時、申叔舟は領議政府事の職にあった。後には単に領議政とよばれることになるこの役職は朝鮮官僚の最高位であり、国王に次ぐ権威と権力を持っていた。そのように位人臣を極めた申叔舟が、辞任に反対する国王を説得してまで、あえて自ら朝鮮通信使の正使という役を買って出たのには理由があった。彼は三年間の領議政の地位に倦んでいたのだ。そもそも周囲の多くの反対の声を抑えて、彼を領議政府事にしたのは、後に世祖と呼ばれることになる、現国王である。申叔舟は何度も就任を辞退したが、聞き入れられなかった。多くの官僚達を粛正し、幼かった前国王を追放して王位についた、まさに四方を敵に囲まれていたともいえる現国王にとっては、申叔舟こそは、ほとんど唯一の、かけがえのない味方であり有能な片腕だった。しかし、そうして王の付託にこたえて懸命につとめた領議政の任務も、三年が限界だった。申叔舟は、心身ともに疲れ切っていた。そんな時に、日本から通信使派遣の依頼がきたのである。

 申叔舟は、自ら朝鮮通信使として日本へ行くことを決意した。彼はかつての若き日、正使卞孝文、副使尹仁甫の書状官として、日本を訪れたことがあった。八ヶ月にわたる長旅だった。世宗王の二五年、日本の年号では嘉吉三年、西暦一四四三年のことである。申叔舟は二五歳だった。十代でかつての師の孫娘を妻に迎えたから、すでに子供も複数いたが、官僚としてはまだまだ若かった。子供のころから読書好きで神童と呼ばれ、二一歳で進士試験に合格、翌年には王が臨席する親試の文科に及第してすぐに集賢殿に入った。ここは、国内の最も優秀な学者を集めた王の直属機関であり、ここに若くして受け入れられたこと自体が、彼の非凡な才能を英明な君主として知られる世宗が認めたことを示していた。集賢殿に入ってからも、日夜、書蔵に籠もって研究と読書にはげみ、時にはそのまま机上に伏せて眠ってしまった申叔舟の姿を何度も見かけた世宗は、そっと彼の肩に自らの上衣をかけてやることもあった。後日このことを知った申叔舟は、世宗のために命を賭けて更に研究に励むことを決意した。

 当時、世宗が集賢殿の学者たちに命じていたのは、訓民正音の研究と創製である。訓民正音とは、現在ではハングルと呼ばれる朝鮮固有の文字である。東アジアにおける文明の淵源である中国の周辺に位置し、同じ漢字文化圏に属しながらも、早くから固有の仮名文字を創製して紫式部や清少納言を生み出した日本に対して、朝鮮では固有の文字の創成が遅れていた。中国とあまりに近すぎて、その影響を強く受け続けたせいである。中国と海を隔てていて、自立的な文化を育む余裕があった日本との違いがそこにあった。しかし、本来、朝鮮の言葉と中国語はまったく違うシステムを持つ言語である。文法的には、朝鮮語は日本語に近い。自分たちの考えを自由自在に書き表すためには、固有の文字が必要だった。特に、女性や庶民にとっては、習得に長年の修練を必要とする漢字以外の文字の創製がいますぐ必要だと世宗は考えたのである。王は、この容易ならざる大事業の遂行を、申叔舟もその一員であった、集賢殿の若い学者達にゆだねた。

 申叔舟が朝鮮通信使の書状官に選ばれたのは、訓民正音の創製事業がほぼ完了して、あとは王による正式発表と解説書の出版を待つばかりになった時期だった。当時、訓民正音創製のための、あまりにも過酷な研究生活が続いて、体調をくずしていた申叔舟だったが、書状官に推薦したのが世宗であったと聞いては、辞退など考えられることではなかった。事実、詩文の才の他に、中国語、日本語、モンゴル語、女真語、琉球語など、東アジアの八つの言語に精通していた申叔舟以上に、書状官にふさわしい人物は一人もおらず、申叔舟自身もそのことを自負していた。

 今、四八歳の前領議政であり、朝鮮通信使の正使でもありながら、京都からの許可が届かないため、ここ博多に三ヶ月も逗留することを余儀なくされた申叔舟は、二十年以上前に書状官として来日した時の日々を回想することが多くなったのだが、先ほど、思いもかけず、矢で命を狙われるという事態に接して、最初に脳裏に浮かんだのは意外な人物の面影だった。いや、意外ではないのかもしれない。なぜなら、その人物こそ、ここ何年間も申叔舟の眠りを浅くさせてきた人物だったからである。

 その人物は申叔舟に対して、必死にこう訴えていた。

 「叔舟さん、今、そんな身体で日本に行ったら死んでしまいますよ。私からも王様に事情を話してお願いしてみますから、どうかこんどのお役目は辞退してください。」

 申叔舟を説得しようとしていたのは、成三問だった。若い申叔舟よりも更に一歳年少の、集賢殿の同僚だった。申叔舟は誰よりも彼の学識と人柄を愛していた。成三問という良き友を得たことは、世宗という至上の君主を得たことと同じほど、申叔舟にとっては大事なことだった。この時、彼は、成三問の訴えを無視して日本へ向かったのだったが、申叔舟が日本での書状官の役目を終えて、無事に朝鮮の首都である漢城に帰りついた時、涙を流しながら城門で彼を出迎えてくれたのもまた成三問だった。

 この日、申叔舟はどうして成三問のことを思い出したのだだろうか。彼を狙った弓矢の射手は口元を布で覆っていたが、その憎しみに満ちた眼光が、申叔舟が最後に見た日の成三問の眼の光と重なって見えたからである。そんなはずはない。きっと気のせいだ。申叔舟は、頭を振って、そんな降って湧いた妄想を頭から消そうとした。

「あの時は強がりを言ったが、どうやら私は動揺しているようだ。行政や外交だけではなく軍事も担当した事があり、何度も修羅場を経験してきた私なのに情けない限りだ。」

 騒ぎが収まった後、嶋屋の主人らと共に宴席に戻り、酒を飲みながら、申叔舟はそう心の中で苦笑した。

 数日後、博多での申叔舟の宿舎である聖福寺に、嶋屋の主人と宗成職が訪れた。宗成職は対馬を統治する島主である。もともとは、鎌倉以来の名門で九州探題を務める大弐氏の下僚だった宗氏は、代々、対馬島を統治してきた。対馬は、ながらく明国や朝鮮国の沿岸地域を悩ませてきた倭寇の本拠地とされ、就位して間もない時期の世宗は、父親の前国王太宗の命を受けて対馬に多数の兵を送った。日本で応永の外寇と呼ばれる事件である。この事件以後、対馬は日本と朝鮮の両国に臣従する形になった。朝鮮国から米などの食料援助を受ける代わりに倭寇を取り締まるというのが両国の取り決めだった。対馬にとっては、その後、日本と朝鮮との貿易の中継地点としての地位を確立したこともあって、この外寇で多くの犠牲を出しはしたが、結果としては悪くはなかった。書状官として日本を訪れた帰途に申叔舟らは対馬に滞在し、その時に、対馬と改めて条約を結び直して、朝鮮と対馬の関係を確認した。申叔舟と対馬の関わりは深かった。今回も、宗成職は、朝鮮通信使の正使である申叔舟に随行して博多にずっと滞在していたのである。その間、百人を超える使節一行の日常の世話をするとともに、九州探題の大名や博多代官らとともに、室町殿のいる京都との連絡折衝にもあたっていた。この日、赤ら顔で恰幅のいい嶋屋の主人と痩身白皙の宗成職という対照的なコンビがもたらした知らせは大きく二つあった。

 ひとつは、申叔舟を襲った下手人について。状況から見て、これは単独犯による犯行だとみられる。数年前に富山浦から来て、女とともに博多に住み着いた男がいる。この男が、船乗りのくせに弓の達人で、日頃、周囲から奇異の目で見られていたのだが、十日ほど前から行方をくらませている。今、その男の立ち寄りそうな所を探索しているという報告だった。富山浦というのは、現在の釜山のことだ。この当時、朝鮮に住み着いていた数多くの日本人は、朝鮮国政府の倭寇取締まりなどの必要から、富山浦、塩浦、乃而浦の、いわゆる三浦と総称される、三カ所の海辺の港町に住まいを限定されていた。三浦にはそれぞれ倭館が建てられた。しかし、三浦に住んでいたのは日本人だけではない。元々、倭寇と呼ばれる人々がそうであったように、ここには明国人も琉球人も、東南アジアから来た人々も住んでいたし、事情があって、朝鮮各地から流れてきた朝鮮人もまた、これらの浦に住み着いていた。三浦は国籍を超越した港町だった。ずっと後に、「三浦の乱」をきっかけに三浦は弾圧され、釜山の倭館だけが江戸時代末期まで続くことになるのだが、申叔舟の時代には、三浦はまだまだ繁栄していた。

 嶋屋と宗成職の紅白コンビがもたらしたもう一つの知らせは、申叔舟の京都入りの許可が遅れている理由にかかわるものだった。京都からは、これこれこういう理由で入京を許可できないと言ってきたわけではないので、たぶんに彼らの憶測も混じっていたのだが、硬軟裏表、さまざまな情報を総合すれば、こういうことではないかという、かなり信憑性の高い説明だった。少なくとも、長年、日本に関する情報に触れてきて、誰もが認める朝鮮国随一の知日派である申叔舟はそう判断した。彼らの説明は以下のようなものだった。

 現在、京都の足利政権はまったく機能していない。京都にいる管領たちも、各地の大名達も勝手気ままに動いているのに、室町殿である足利義政はまったく政治に無関心で、何も対策をうとうとしない。そんな中、天皇(後花園天皇)が動き出した。嗣子に位を譲り、武家の世が始まる前の院政時代のように、自ら上皇として政治を動かそうというのだ。なんと、室町殿はそのことに賛同してしまった。もはや足利政権はなきがごとくである。今回、朝鮮国からの使節派遣を要請したのは、各地の大名達が、室町殿の派遣船であると偽って、勝手に朝鮮国と貿易している現状を正すのが目的であった。当然ながら、大名たちはその動きに反発し、今や上皇をまきこんで、申叔舟の入京をはばんでいるのである。ここまでの説明は、さまざまな情報に日々接していて、日本の国内事情にも精通した申叔舟にとっては納得できるものだった。しかし、次の嶋屋の話には、さすがの彼も驚いた。

「実は、正使様の入京に反対しているのはそれら反対派だけではないんです。将軍足利義政公その人もまた反対しているのです。なぜなら、今回の正使様の派遣を要請したのが、将軍御台所である日野富子様だったから。かねてから、本当の室町殿は義政公ではなく、奥方の日野富子様であるという世間の風評を面白くなく思っていたところに、反対派の面々は、今回、朝鮮通信使の正使となった申叔舟という人物は、かつて富子様と深い関係にあった人物です。だからこそ、領議政の地位をなげうってまで、今回、わざわざ日本に来たのですと義政公に吹き込んだそうなのです。こんな馬鹿げた話は誰も信じないだろうと思いきや、義政公はどうやら信じたようです。」

 さすがに申叔舟も、嶋屋の最後の言葉は信じることができなかった。足利将軍もそこまで愚かではないだろう。自分が書状官として初めて日本に来たのはもう二十年以上前のことである。それ以来、日本に来たことはない。現在、二十歳代の半ばだと思われる将軍御台所が私と関係があるはずがないではないか。誰が考えても自明のことだ。それなのに、そんな噂が出て、しかも将軍が信じたかもしれないというのは何故なのか?嶋屋の主人と宗成職が去った後、申叔舟は一人で考えにふけった。彼の脳裏に、一人の女性の映像が浮かび上がった。それは、日野富子ではなかった。

 当時、朝鮮通信使の書状官として京都に滞在していた申叔舟は、天龍寺を宿舎として、忙しい日々を送っていた。天龍寺は京都五山第一とされる名刹で、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した。その建設費用を捻出するために、天龍寺船と呼ばれる貿易船を仕立てた。その後、政権の財政を維持するために海外貿易を積極的に利用したのは、自ら日本国王と称した足利義満である。義満は日明貿易を盛んにするだけではなく、日朝貿易にも道を開いた。それ以降も、天龍寺は、京都における貿易の拠点としての役割を果たし続けた。明国や朝鮮からの使節の多くがここに滞在したのも当然のことだった。書状官は、朝鮮最高の知識人が担う役割である。書状官である申叔舟の元には、京都だけではなく、近畿一円あるいはより遠方の地からも、彼との詩文の交換や揮毫を希望する者たちが連日訪れた。その応接のために用意された部屋はすぐに人が溢れたので、仕切りの襖障子をはずして、次の間を開放しなくてはならない程だった。来訪者は、当時の知識人を代表する五山などの寺の僧侶たちや貴族、大名、それらの家来、朝鮮や明との貿易に従事する豪商たちなど、多岐にわたった。そんな中に男装をした一人の女性がいた。その女性は、他の客達が帰った後も一人残り、もっと申叔舟の話がききたいと願った。申叔舟は何度も断ろうとしたが、ついに断りきれず、結局、数度にわたって個人的に会うことになった。彼女との間でどういうやりとりがあったのだろうか。申叔舟自身、やや飽き飽きしていた詩文の応酬や添削ではなかったのは確かだ。だからこそ、彼女とのひとときは、申叔舟にとっては、書状官であることを忘れられる、唯一安らげる時間だった。申叔舟は、頭の中の、時間の海に浮かぶ船を過去に向けて船出させた。


「申叔舟さまのお名前は、御父さまがおつけになったのでしょ。そうだとすると、お父さまは船か、あるいは海か川がお好きだったんですね。」
「私には男兄弟が何人もいますが、みんな最後に舟という文字がついているんです。でもね、この舟は船のことではありません。」
「どいうことですか、よくわかりません。」
「朝鮮の言葉では、舟と酒とは同じ発音なんです。私たちの父親はたいへんな酒好きで、詩文や書の才能が認められていたのに、酒で何度も失敗して、そのために出世ができなかった人間なんですが、それでも一生酒を愛し続けた。子供たちの名前に、ひっそりと酒を含ませるくらいにね。」

 そうだ、こんな話もした。申叔舟の回想はさらに続く。たぶん、私がひらがなやカタカナも読めるという話の流れだったと思うが、世宗王の指導のもと、当時ほとんど完成していた訓民正音の話になった事があった。

 「朝鮮も日本も、同じく異国の文字である漢字を使いながら、日本では早くからカナ文字が出来たのに、朝鮮では今頃になってつくろうとしているのはどうしてなんですか?」
 「それは、日本語と朝鮮語の音韻の違いに原因があります。日本語の音韻は単純で、朝鮮語の音韻は複雑なのです。まず、朝鮮語の音韻はどういう構造のものなのかを諸外国の言葉との比較の上で明らかにして、その朝鮮語の複雑な音韻を、できるだけ簡単で数少ない文字で表現しなければいけない。新しい文字をつくったとしても、習得が難しければ意味がない。漢字を覚える方が早いから。集賢殿での私の一番大きな役目は音韻の研究でした。そのために、朝鮮に入国した明国の学者を質問攻めにしたり、自ら国の内外を歩き回って音韻の研究をしたりしたんです。そうそう、明国の有名な音韻学者で都からの追放刑を受けている人がいましてね。わざわざ、同僚の成三問という男と一緒に、その人に会いにいったこともありますよ。」

 そんな私の話を、彼女はいつも瞳を輝かせて聞いてくれた。私たちの帰国が決まった後のある夜のことである。彼女が私の寝室に忍び込んできた。彼女は私の目をじっと見つめて、こう言った。

 「帰国が決まったと聞きました。もう、お師匠さま、いえ、申叔舟さまとは生涯お会いすることはないでしょう。お願いです。今夜は添い寝をさせてくださいませ。とんでもないお願いだとは重々承知しています。でも、このままお別れすれば、一生悔いが残るだろうと思いました。どうか、私の気持ちをお汲み取りください。」

 私はその申し出を拒否できなかった。なぜなら、それは、私自身もずっと望んでいたことだから。国に残した妻には申し訳ないが、彼女ほど魅力のある女性を私は他に知らなかったし、まさか日本でそんな女性に巡り合うとも思っていなかった。そんな事があってから、京都を離れていくつかの港を経て博多に使節船が着いた時、そう、あれは博多だった。彼女からの私宛の文が私を待ち構えていた。そこには彼女の本名が書かれてあった。そう、彼女はずっと偽名を使っていたのだ。彼女の本名は北大路苗子。しかも、彼女はすでに人妻だった。夫の名は日野重政とあった。

 申叔舟の回想はそこで止まった。ひょっとして、北大路苗子と日野重政、二人は日野富子の父と母ではないのか。だとすれば、将軍御台所の日野富子は、私の娘なのかもしれない。あまりにも意外な事実に、申叔舟はめまいを感じた。いや、これはまだ事実と決まったわけではない。単なる推量にすぎない。可能性はなくもないというだけだ。何しろ、日野富子の生年もまだ明らかではないのだから、まずはそれを確かめないと、と申叔舟は自らを落ち着かせた。しかし、今になって御台所と私の個人的な関係が噂になっているという事は、誰かがこの昔の出来事を知っていて、室町殿の耳に入れたということではないのか。でも、一体、誰が、何の目的で?申叔舟の思考は千地に乱れた。誰か政権の枢要にいる人物が申叔舟の入京を望んでいない。それだけは確かだと思えた。

 数日後に事態がまた動いた。申叔舟を襲った人間が捕まったのである。犯人はやはり、数年前に富山浦から博多にやってきた、例の船乗りの若い男だった。その男が、申叔舟は父親の仇だと主張し、申叔舟に会わせろと言っているというのだ。どうはからいましょうかと、嶋屋と宗成職の紅白コンビが申叔舟に言ってきた。申叔舟は会うことにした。場所は、博多にある宗家の屋敷だった。普段は米や木綿製品などの貿易品を保管する倉庫らしい建物の一角の土間に、その男は後ろ手に縛られた姿で座らされていた。横には、監視のための役人が数人立っていた。申叔舟は、その男と向き合う位置に置かれた椅子に腰掛けた。明国から輸入された立派な黒檀の椅子である。隣の席には宗成職が座った。その若い男の顔を見た申叔舟は、一瞬、息を呑んだ。男は顔を上げて、じっと申叔舟の目をにらみつけている。その目にも顔つきにも見覚えがあった。そして、この罪人詮議の状況にも。あの日、あの時の、まさにそのままの再現だった。申叔舟は目眩を覚えた。

 時間はさかのぼる。書状官としての役目を無事に終えた申叔舟は、ふたたび集賢殿に戻った。世宗によって正式に発布された、後にハングルとよばれることになる訓民正音の解説書を書くことが新しい任務だった。それを終えた後、世宗の命によって、世子の侍講になった。皇太子の教育係である。その数年後に世宗は薨去した。その三十年を越える在位期間で、父親の三代太宗が築いた朝鮮国の基礎をさらに盤石のものにするとともに、さまざまな文化的な発展にも努めた。その最大の功績のひとつが訓民正音の創製である。主君を亡くした申叔舟の嘆きは大きかった。後に文宗と呼ばれる世子が即位し、申叔舟も要職に昇進したが、その文宗はもともと蒲柳の質で、二年もせずに薨去した。その世子がわずか十一歳で後を継いだ。後に端宗と呼ばれることになる幼い王である。文宗の弟で、端宗にとっては叔父にあたる首陽大君が後見人をつとめた。朝鮮国で新しく王が即位するためには、宗主国である明国皇帝の裁可が必要だった。その裁可を受けるための北京への使者の役目を、首陽大君はみずから買って出た。その使節団に同行する書状官として、首陽大君は、かねてからその才能を認めていた申叔舟を指名した。申叔舟と首陽大君の関係がここから始まった。

 その翌年、首陽大君が、端宗の元で実権を握ってきた、金宗瑞や皇甫仁らの重臣たちを除去する、後に癸酉靖難と呼ばれることになるクーデターを挙行した時、申叔舟はその参謀役を務めた。申叔舟の主な役目は、集賢殿の学者たちを味方に引き入れることだった。言うまでもなく、明や朝鮮のような科挙の国においては、学者と高級官僚は重なる。集賢殿の学者は官僚としてもエリート中のエリートだった。その学者の一人に、申叔舟の最愛の友である成三問もいた。当初、彼は首陽大君の陣営に参加することを渋っていた。

 申叔舟は成三問の発するいくつもの疑問にひとつひとつ丁寧に答えながら、熱をこめて彼を説得した。その時に申叔舟の発した言葉をまとめると、ほぼ次のようになる。

 「首陽大君は人格も識見もすぐれた人物だ。世宗王の王子たちの中で、もっともその才能を引き継いだのは、先王の文宗ではなく、首陽大君だと私は思う。文宗はそれなりに優れた王だったが意志も身体も弱すぎた。偉大すぎる父親を持ったせいか、自信に欠けるところがあった。その反面、自分は父親とは違うのだということを周囲に見せようとした。その欠点が最も出たのが、金宗瑞や皇甫仁を重用したことだ。彼らの政治的な能力に疑いはない。見識も高いし人格者でもある。文宗が、彼らに幼い世子の行く末を託したのも理解はできる。でも三問、よく考えてくれ。亡き世宗王や私たち集賢殿の学者たちが心血をそそいで完成させた訓民正音を、金宗瑞たちは否定していたんだよ。今も否定している。女や庶民に文字は必要ない、文字を扱えるのは、選ばれた両班だけでいい。それでこそ世間は安定するのだというのが彼らの考えなのだよ。彼らは世宗王の最大の功績を否定しているんだ。私は彼らを許せない。三問よ、この戦いは首陽大君が勝つよ。武器弾薬や味方の兵士の数おいても、金宗端らに勝ち目はない。今はもう、どちらにも味方せずに静観するという有利で安全な立場はないんだ。それは、首陽大君が許さない。今が最後の機会だ。すぐに私と一緒に首陽大君の陣営に来てくれ。」

 申叔舟の訴えは成三問やその他の集賢殿の学者たちを動かした。彼らは、首陽大君の陣営に加わった。実権を得た首陽大君は、王族としては異例なことに、自ら領議政府事の地位に着いた。しかし、それは長く続かなかった。首陽大君が幼い端宗に譲位を迫り、自らが王位に就いたからである。世祖の誕生だった。譲位を余儀なくされた少年王は、後に殺されることになる。今や、新王が最も信頼する側近となった申叔舟は、冊封奏請使として明国へ旅立った。しかし、成三問らは新王の元を去り、端宗復位運動を起こした。悲劇が始まった。かつての無二の親友が、いまは仇敵同士になってしまった。帰国した申叔舟の役目は、新王の治世に反対して下野し、端宗の復位をはかる政治家や学者たちを取締まり、逮捕することだった。成三問も逮捕された。

 逮捕された元高官たちの取り調べには、王自身が立ち会った。当然ながら、側近である申叔舟も同席した。こうして、罪人の衣装を着せられ、後ろ手に縛られ土間に座らされた成三問の姿を、申叔舟は見ることになった。目を背けたくなる光景だった。しかし、申叔舟は自らに言い聞かせた。しっかり正視しろ。それが、かつての友への最低限の礼儀だと。二人はにらみ合った。王から、言い分を聞こうと言われた成三問は、王と申叔舟に対して、自らの考えを朗々と述べた。王は静かに聞いていた。しかし、成三問が最後に言い渡された刑は極刑だった。八つ裂きにされた後、首は城門にさらされる。事前に重い刑は予想されていたが、これ程とは。それは申叔舟にも成三問にも衝撃だった。役人たちにうながされても、成三問はなかなか立ち上がることができなかった。部屋を出る時、成三問は申叔舟に向かって叫んだ。「申叔舟! これがあなたが望んでいたことか!」。申叔舟は無言のまま、じっと座っていた。成三問以外の首謀者たちも、同じような刑を受けた。彼らは後に「死六臣」として歴史に残ることになる。

 
 今、申叔舟の目の前に、あの時の成三問とそっくりの若者が座っていた。あの日と同じように、申叔舟は黙って座っていた。取り調べは、横に座る宗成職が行った。若者は素直に尋問に応えた。そこで若者が語ったのは、次のような物語だった。

 若者の母親は、成三問の家で下女として働いていた女性だった。身ごもっている事がわかった時、成三問とその夫人から支度金をもらって里に帰された。もし、男子が生まれたら連れてくるようにとも言われた。しかし、その後まもなくして成三問は刑死し、一族の男子は全て殺された。女性たちは奴婢の身分に落とされて、各地に引き取られていった。若者の母親は、都の漢城を離れ、親族を頼って、遠く富山浦に身を隠した。若者はそこで生まれ育った。周囲には日本人が多かったが、事情があって朝鮮各地から逃れてきた、彼ら母子らのような人間も多かった。

 そこで若者は、一人の日本人の娘と恋をした。博多と富山浦を行き来する船乗りである父親とともに、娘も船に乗って海の生活をしていた。母親はいなかった。若者の母親が富山浦で病死した。一人残された若者は、その娘と世帯を持ち、共に海の生活を始めた。そして、数年前に博多に本拠を持った。娘が身籠ったからである。娘は博多で母となることを願った。父親である成三問のことは母親から何度も聞かされていた。その時に、申叔舟の名も知った。父を殺した敵として。

 ここまで若者の話をじっと聞いていた申叔舟が初めて口を挟んだ。朝鮮の言葉だった。横に座る宗成職も朝鮮語を解したから、これは申叔舟が他の人に話の内容を知られたくなかったからではない。ただ、たぶん成三問の遺児であろうこの若者には、母国である朝鮮の言葉で語りかけたかったのである。

 「それで、父親の仇を打つために、私を殺そうとしたのか?」

 若者の答えは意外なものだった。

 「会ったこともない父の仇打ちなどしません。それに、本当に貴方を殺すつもりだったら、ちゃんと殺していますよ。私はそんなに弓が下手ではない。」
 「ほう、わざと外したというのか。」
 「わざと外したかどうかは、問題ではありません。私はただ、仇打ちなどつまらないと思っているのです。あの日は、せっかく貴方が同じ博多にいるのだから、一度、姿や顔を見てみたかった。何しろ、子供の頃からずっと貴方の名前を聞かされていたのでね。私はそれが嫌で嫌でたまらなかった。私の一生はまっさらのものでありたかった。誰かの恨みを引き継ぐ人生などつまらない、そう思っていました。」
 「では、どうして矢を放った?」
 「母親への供養ですよ。いや、言い訳かな。貴女の恨みを晴らそうとはしましたよってね。ただ、私は貴方を殺すつもりはなかった。博多には女房も娘もいる。今更、人殺しになって、逃げ回るつもりはなかった。」
 「その方、成四問と名乗ったな。それは本当の名か?」
 「あれは冗談ですよ。私は富山浦に住んでいた時、母や周囲の大人たちからはずっと、カイと呼ばれていました。海と書いてカイ。そう、日本人のつけた名前です。今は海蔵と名乗っています。苗字はありません。今では私は日本人です。これからも日本で生きていきます。」

 申叔舟の尋問はそれで終わった。帰り際、申叔舟は宗成職に、若者に監視をつけて釈放するように言った。彼の話を全て信じたわけではないが、あの夜の襲撃はなかったことにすると。

その数日後、申叔舟は大きな決断をした。京都に入ることを断念して、朝鮮に戻ることにしたのである。日野富子、いや、生きているなら、その母親にも会ってみたかったが、今となってはもうどうでも良いことだった。

 先日、海蔵と名乗り、これからは日本人として生きていくと言った若者に、申叔舟は成三問の姿を重ね合わせた。あの若者はまさに成三問だった。あの尋問のあった夜、成三問が申叔舟の枕元に現れた。成三問はこう言った。

 「叔舟さん、前を向きなさい。あなたが人生を賭けて選択した首陽大君は、いま立派に王としての務めを果たしている。元々の資質に加えて、あなたが懸命に補佐したからだ。私や朴彭年ら六人が処刑された年、あなたは夫人と長男を続けて亡くした。因果応報だとあなたは受け止めたが、それでも立ち止まることはなかった。その後も、裏切り者という汚名に耐えに耐えて、ついには領議政府事という重責を三年も果たした。でも、それが限界だった。そのことに疲れ切って、こうして日本にまで逃げてきたあなたを誰も非難できない。でもね、叔舟さん。あなたはもう充分に頑張った。過ぎ去ったことに、いつまでも囚われていてはいけない。私はもう、あなたを恨んでなんかいませんよ。あなたは朝鮮国にとって必要な人だ。こんなところでうろうろしていないで、早く国へ帰りなさい。あなたの王様もそれを待っている。」

 それは、申叔舟が自分勝手に頭の中に作り出した都合のいい幻影かもしれなかった。しかし、申叔舟は信じようとした。成三問が、やっと自分を許してくれたのだと。


 帰国後の申叔舟は、ふたたび、世祖の最側近の政治家として職務に励んだ。世祖が亡くなった後、その子の睿宗、睿宗が短命に終わった後は、幼い孫の成宗を擁立した。長期政権になった成宗時代の初期には、再び領議政の位について、若い成宗の政権を支えた。その成宗の要請に答えて、彼が長年にわたって収集した資料を元に、日本や琉球の地誌をまとめた「海東諸国紀」を編纂した。この書は、以後の朝鮮の事大交隣外交における基本資料になった。成宗六年(一四七五年)、申叔舟五八歳。その死に際して、成宗から何か言い残す事はないかと尋ねられた申叔舟はこう答えた。「願わくは国家、日本と和を失うことなかれ」。申叔舟がこの言葉に何を託そうとしたのかはわからない。しかし、申叔舟にとって、日本は生涯の最後まで特別な国だった。それから百年以上が経って、秀吉が朝鮮に侵攻した後に、この申叔舟の遺言は、祖国を守るために闘った朝鮮の一将軍によって改めて思い出されることになった。

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