安っぽい魔法のこと
『暇と退屈の倫理学』を半分と少し読み進める。退屈だ、という強迫観念の存在等、日々生きていくなかでのモヤモヤが言語化、理論化されたものを飲み込んでいく、といった感じ。面白いなあ。
行きの電車では新潮文庫の『グレート・ギャツビー』の読み残しを。昨日に村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読了したところ、ということもあり、似ているなぁと。情景描写だったり、行間となる文章の織り交ぜ方であったり。
個人的に『グレート・ギャツビー』と聞かば想起するのはバズ・ラーマン監督の映画作品。ギャツビーはディカプリオでありデイジーはキャリー・マリガンでニックは...てな具合で小説を読んでいても浮かんでくるのはあの素晴らしき俳優陣。なんせ大好きな"映画"作品ですから。
そう、大好きな映画のはなし。『パルプ・フィクション』を初めて観たときの一種の感動は今になっても色褪せない。大学2回生のときだった。好きな女の子に近づこうと、映画鑑賞を趣味とすべく文字通り頑張っていた時期だ。それは映画を映画として見始めて少し経った頃のはなし。
"映画"を趣味として人に薦めるのを憚るのは、この頃の自身の経験だ。そんなに面白いものだとは思わなかった。多感な時期から映画に近い環境に身を置いていたのならまだしも、内なる要請なしにあんなものをダラダラと観ることが如何に難しいことなのかは百も承知である。
映画館に足を運ぶのは大いに勧めますとも、胸を張ってね。あれほどの空間を私は知らない。ハードルの高さは何とかならないかとは思ったりもするが。ひとりで"観に行く"ことに対する抵抗は今でもよく耳にすることだし。ただ〈あんなもの〉なんて語がその前後に付いた日にゃ悪しきレッテルが脳内で手に取られるのどけれど(一段落上に"あんなもの"の字が踊っているのはさておき)。
なにか上の者がよく分からんことを抜かしておるが話を戻そう。その夜は映画再生には能のある馬鹿みたいに重いノートPCを前に、酒を飲みながら『デトロイト(2017)』を観て眠りに就こうと考えていた。目論見通りには行かなかった。なんでこんなものを観なければならないのかと独り憤った。いわゆる胸糞悪い物語と、それが現実の出来事という事実に打ちのめされた。
映画を見始めたころはその時々にあった作品を選ぶことが出来なかった。そのお陰で様々な作品に触れられたのだが。例えば『デトロイト』では現実を知ることが出来た、という具合に。ただその夜については時間が適切でなかった。今は観たいものが多過ぎることで、選ぶことにかけては自らに辟易するほどの優柔不断ぶりである。
もう一本なにか観てから寝よう、そう思って何気なく再生したのが『パルプ・フィクション』であった。冒頭で〈Misirlnu〉が流れてからは先程までの憂鬱は何処へやら、観終わった頃には味わったことの無い満足感を覚え、そして興奮からか眠れなかった。
魔法だった。映画に恋をした瞬間でもあった。映画は魔法たり得るのである。
そんなアブラカタブラウこと『パルプ・フィクション』が、どうやらMOVIXで1週間という期限付きで上映されるらしい。60歳を迎えるタランティーノの聖誕祭とのこと。無論というか勿論というか、「行くのか」という問い掛けは愚問の骨頂である。
あの夜のように私に魔法をかけて、そんでどこかへ連れて行っておくれさ。
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