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偶然性を偶然性としてだな

朝、喫茶でモオニングを。大阪某所、或る書店の開店を目掛けて電車に飛び乗る。南へ、南へと逸る気持ちのままに、Ben E. Kingの聞こえたあの街へ。

ふと向かいの窓に映る、私の背後に広がる風景が目に映った。自身のものと合わせて、三重の硝子を通して生まれた、その古めかしい色合いに見惚れたのも束の間、額縁はマンション群に塗り潰される。元来、世界は閉じるものである。

なんとも野蛮でお下品な買い付け、上の計二十一冊で千円ポッキリである。まだ雪上を乗りこなせなかった小さな頃、両親に連れられたスキイ場の片隅で、よく宝探し 一そういう催しがあった一 に興じたものだ。折しも冬、あのときは個包装の飴ちゃんだったお宝は、いつの間にか書籍へと変じていた。

少しは大人になったのか、所謂セール品とは別の、めぼしい幾つかも買って帰った。罪悪感とはこれまた便利な言い訳である。

京都へ戻りながら、アップリンク会員の更新。登録をしてから一年、気になったので精査してみると、なるほど、これはなんともお得をしておった。それ故にお金を巻き上げられるのだが、なんにしてもお得である。価格の話が続きながら"節約"という二文字が浮かばないこと、この際気には留めぬ。

そう、映画を観るのだ、『コット、はじまりの夏』を一一

劇場の座席へ腰を下ろす。それは私と膀胱との、血で血を洗う闘争の火蓋が切られる瞬間であり、転じて膀胱と作品との、私の志向を巡る主導権の争奪戦が始まったことを意味する。忘れてはならないのが睡魔の存在であって、不敵にほくそ笑む彼女の魅力に、情けのない私が時として我を忘れることは周知の事実であって弁明の仕様が無い。まったく、あらゆるモノに好意を寄せられるのはたまったもんじゃあない。色男は困るねえ。

と、ここまで記して。劇場に入って、それから出てきた。かくの如き下らぬ文章を目に入れたくないくらいには、大いに心を打たれた。作品は少女のレジリエンスを題材にしており、あくまで子供として、その両眼に備わった目線、これを逸しない点が見事なものである。

若々しい緑や透き通った水などの美しい自然のイメージと、しなやかな身体の動作。画面の明度とレンズの向き。それらの彼是は言うまでもないだろうし、作品の肝所は矢張り見せない・・部分にこそあるだろう。稀に訪れる、良質な作品を観たという、自信のある感覚。

ウォルター・ジュール氏
ウィリアム・ラング氏

午前に負った重荷さえも忘れ得るほど気分も宜しくなった。新風館の〈なんとなく立ち寄る展〉はまあ置いておくとして、dddギャラリーの〈MIRROR/MIRROR:カナダ・日本 現代版画ドキュメント〉は表現の角度、奥行という点で愉しめた。

夜、三日ほど前から読み進めていた浅田彰『構造と力』を了する。学生時代に出会っていればとも思ったが、咀嚼できたとて下手に傾倒して痛い目をみるのが関の山であろうし、畢竟いまが適当な時節なのだろう。分かり易いのか否か、どちらとでも言えるのだろうが、兎も角、附随して読みたい本も数冊。

急用で帰宅は夜中十時過ぎ、疲れた。

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