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四日目 令和元年五月二日 七時四十五分頃

 東海道中有松日本橋 満願大成就膝栗毛。四日目 令和元年五月二日 七時四十五分頃。三河國からと遠江國へ 一里山。

【上段】一里山の一里塚。同好の士に一里塚撮影を付き合ってもらう。私の主目的の一つは史跡めぐり。彼は交通事故の足の怪我からの復調。目的が少しずれているが、史跡も嫌いではないらしく付き合ってくれた。

 街道歩きには二種類の人間がいる。「史跡めぐり」と「健康増進」。両方を兼ねている人も多い。それらは見た目ですぐ区別ができる。「史跡」はカッコ悪く、「健康」はアンダーアーマー、パタゴニア、モンベルとかを着ているのでカッコイイのだ。足の復調が主目的である同好氏は「健康」寄りである。「史跡」の人はすれ違えば、挨拶をする。「健康」のみの人は挨拶を絶対にしない。例外なしだ。健康は自分だけの問題であり、出先なので自分以外の周りと関わりを持つ必要がない。従ってこちらから挨拶をしても無視するか、「なぜ、知らない人が挨拶を?」とキョトンする。現役を引退したと思われる人生経験が長い老人でもそうなのである。

 そういった挨拶ができない輩を私は「健康馬鹿」と呼んでいる。「健康増進」のみの輩の特徴は、何回もの膝栗毛を経験して解ったことだ。今回の膝栗毛では、こういった「健康馬鹿」には一切挨拶しなかった。一方、街道を行く外国人は陽気である。西洋人なんかは例外なく「ハーイ」と挨拶をしてきた。

【中段】三河國からと遠江國へ。愛知県豊橋市から静岡県湖西市に入る。ここからは文化圏が全く異なる。

 ここを流れる境川が県境になっている。従ってこの川の橋及び道路の管理もここで分かれる。愛知県側は愛知県道173号線、鈴岡県側は静岡県道173号線である。この境界を明確にしているのが、写真の境界杭だと思われる。

【下段左】天明六年(1786)に発行された「東海木曾/両道中懐宝図鑑」におけるこの辺りの解説。川が描かれており、

遠江 参河(三河のこと)界 境川 さかゐ橋

と説明してある。現在、橋は「境川橋」と呼ばれる。

立ハ 一里山村 田原山

 立場とは人足の休憩場所のこと。左上には、以下のようにある。

両方共 松多し 一里塚を は(者)け物 つ(徒)か(可)といふ

 往時は化け物が出そうなくらい寂しいところだったようだ。まぁ、今でもそう。右下に

名物 かしはもち 猿が(可)馬場

とある。この辺りでは柏餅が名物だったようだ。浮世絵にその様子が描かれている。柏餅の製造の様子はコチラ

【下段右】白須賀宿の町家の前を歩く同好の士。私の姿と違ってカッコイイのだ。今度はこんな出で立ちで歩こう。

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