『レディ・プレイヤー1』と純粋経験に近い何か

突然ですが、『レディ・プレイヤー1』のラストは好きですか?

え、そもそも観ていない? なら一旦Prime Videoで観てから、戻ってきていただくとして。

公開当時あのラストをどう感じていたか、正直に言うとあまり覚えていません。それよりも「あれは〇〇が元ネタで、後ろにいたのは△△のキャラで……」と考えていたら、近くにいた男性が連れの女性に聞かれてもいないイースターエッグをべらべらと喋り立て、「そうなんだ」の一言で片づけられていたことのほうが印象的でした。
それを見て、自戒の念を覚えた事ははっきりと記憶に残っています。

『レディ・プレイヤー1』はオタクであることの素晴らしさ、VR世界の楽しさを描いた一方で、その結末がいわば「お前らもたまには外で遊べよ」だったことに批判も多かったようです。

その感情は大いに理解できます。現実世界では、最初にランダムで配布されたアバターから変更ができません。なんというクソゲーでしょう。

ところが、外出自粛生活も2年目になった今、あのラストへの解釈が自分の中で変わりつつあります。

SNSがあれば友達と話せるし、趣味の情報収集もできる。通勤がない。出社もないからストレスがかからない。VODのおかげでエンタメにも事欠かない。

そんな良い事ずくめだったはずのリモート生活に、少しずつ精神が参ってきているのを感じています。ストレスはないけれど、代わりにずっと無気力で、情報にはアクセスできるけれど、何にも興味が湧いてこないのです。

一体なぜなのか。

NHKの『100分de名著』という番組が好きで、先日、西田幾多郎の『善の研究』の回を観ました。西田は生きていく上で必要なものは経験、それも純粋経験と呼ばれるものだと説いたそうです。

純粋経験というのは、人間の色眼鏡を外して見た世界を指します。先入観、言葉、思考……そういうものを取っ払ったありのままの世界との触れ合い。その話を聞いた瞬間、はっとするものがありました。

テレビも、ネットも、本も、映画も。人間が作ったものはすべて、誰かが意図してそこに置いたものです。

伝えたい。楽しませたい。モノを売りたい。有意義で有意味だからこそ、それらはうるさくて、時にうんざりさせられます。

ところが、一歩外に出てみると、6月の屋外で感じる日の明るさ、じめっとした空気、道端に生えているねこじゃらし……それらには意図がありません。

分析や考察のしようがない分、匂いだったり、色だったり、温度だったりが不可分なまま体の中に入ってくる。これはなんだか、西田のいう純粋経験に近いような気がします。

今朝、天気が良いとも悪いとも言いづらい曇り空を見上げながら、心が少しだけ軽くなるのを感じました。

人の意思が介在しないものに触れる。そういう意味で、外で遊ぶ時間というのは、2年前の自分が思っていた以上に大切な時間だったのだと、改めて実感する日々を過ごしています。

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