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卒業というスタート

卒業式の季節ですね。

何かを成し遂げて終わったことに感動するともに
何を成し遂げたんだろうって思います。

自分以外の誰かに思いを重ねて感動します。
卒業を無駄にしないためにしたいことを考えてみます。

卒業の記憶

自分が学生生活の中で卒業の時に得たものは
卒業証明書や資格の証明書としての記憶しかありませんでした。
思い出とかは卒業とは別な感情の中で
紐づいているような気がします。

大人になって何かを指導する側になってみたり
親になったことで感じる卒業の方が
卒業自体から多くのものを得られているような気がします。

卒業から得たもの

自分が卒業するときは卒業式は未来への連続する毎日の
わずかな時間でしかない気がします。
区切りではなく通過点。
マラソンの給水所みたいな感じ。
走り続けているからその場を同じ場にいる友達と共に進んでいます。

我が子や自分以外の誰かの卒業式は
マラソンの給水所で水を渡す側の様です。
通る人たちの成長を感じながら
「ここまで来てくれてありがとう、
ここから先も気をつけて」って感じます。

卒業から得るものは当事者がない方がいいのかもしれないです。
そばで見てきた人たちの成長から
自分の成長へのヒントをもらえるます。
僕が彼らにどの様に関わってきて
どういう成長のキッカケを作ってこられたか。
彼らの未来の土台を渡せたのかって。
僕に対しての通信簿が彼らの笑顔や感動の涙に表れています。

卒業がスタートだって思えるように

卒業する当事者は何年後かに卒業した意味を感じます。
途中で投げ出さずにやり遂げたことの意味や
卒業を感じられずにきたことも
次の卒業を目指すために意味があったということを。

僕は親になるまで卒業の意味を感じることができずに生きてきました。
人生の中での節目はいっぱいあったはずなのに、
自分と向き合うことが出来ていなかったんだと思います。
厳密に言えば他人と比較することを避けてきたからです。

誰かと比較することで良くも悪くも自分を知ることが出来ます。
何が出来ていて何が出来ないのか。
比較することで優劣がつくのかもしれません。
でもその優劣は何かの基準に対してだけ。
別の基準であれば優劣は逆転することも多いです。

卒業するということはいろんな基準を知ることなのかもしれません。

知らない基準を知るためには進まないといけません。
知らない基準を知るために今に区切りをつけないといけません。

学校の卒業は強制力のあるスタートが切れるんですよね。
もちろん退学して自分でスタートできる人もいます。
僕には出来なかったことです。

僕は与えられた卒業だけで生きてきました。
大人になってからは自分の選択で道を変えてきたけど
何かを成し遂げて卒業してきたわけじゃなかったです。
今も社会人になってから明確な卒業をせずに生きています。

今が卒業の時と言えるように、
卒業していく人たちに刺激を受けながら
今の自分を卒業します。
そしてスタートします。

貴方の卒業はいつですか。


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