ふぇみにずむ(駄文)


“わきまえている女にだけ与えられるそれは「人権」ではない”

珈音(ケロル・ダンヴァース)


ふと目について読んでしまった。

情報が多過ぎる世の中で自分の考えたいことが増えてしまって、考えが追い付けないまま情報に感情を揺さぶられるばかりで体を置き去りにして心だけがジェットコースターに乗せられてるような感じ。
それで、答えのない“闘争”についての記事やらニュースはサラッとかわしていたんだけども、ふと目についてしまった。

しかもTwitterで流れてきたこちらの記事、ついついやましい人間の性でリプ欄など見てしまって、あぁ地獄絵図。

恐ろしいほどの「そこじゃねぇよ」とツッコミたくなるコメントの数。
それを書いている人の姿が透けて見えるあの薄ら寒さ。

諦めたくなるくらいの深い溝が私とコメントを書いた人間達の間にある。(これを絶望と呼ばずしてなんと呼べと…!)

私が現実にタリバンの兵士によって殺されることはないだろうが、「誰でもよかった」と言いながら女性を狙う男によって殺されるかもしれないという社会に生きている。そして、そうした「女性を狙った犯行」が女性蔑視に基づく社会の問題として扱われないことの恐怖も知っている。「冷静に状況を見守ろう」と言えるほど他人事とは思えない。

上記記事引用

弱者には発言権がないのがこの“男社会”である。
これは別に“男”が悪いという話じゃない。
それくらい単純な話で済むならそれ程ありがたいことはないのだ。

でもこういった記事を読むと反射的に
「男だって…!」「女だって…!」と、マジでどうでもいいことを言い出す人がいる。

こう言った話題はそれくらい議論されていない話題なのだ。
対話にもなっておらず、成熟するなんてまだまだ先のことで、私の脳内会議の議題に今日初めて上がりましたよ、などと言われてしまう話題なのだ。

それくらいこういう“男社会”“女性蔑視”の話題はあたかも無いものかのように透明化されてきた。

何故か。

この話題が表出しない、社会的に扱われないことで苦しむ人間が“弱者”だからだ。

弱い奴らは塵芥、あっても構わないがなくても構わない、そういうものだ。(あえて胸糞が悪くなる言い方をしてますよ。)

そんな奴らの苦しみなど理解の必要もない。こちらがわざわざ優しくしてやれば奴らは不平不満しか発さないのだから、発言権などいらないだろう。

 「シャリアの範囲内での自由」それは、要するに「わきまえている女にはある程度の権利を認めてやる」ということであり、「わきまえている女」であるかどうかを判断するのは男である。男が認める範囲内での自由など自由ではない。かの地にどんな歴史的背景があろうと、宗教的にどんな理屈をつけようと、女性が自由を奪われてよい理由などないし、女性の自由を奪うことに理解を示してたまるか!と思う。

上記記事引用

こちらサイド(社会的強者)の言うことを聞けないやつは死んでも致し方ないでしょう。

というのが“男社会”のシステムなのだ。
“わきまえる”というのは別に女性だけじゃない、立場の弱い人たちはみんな“わきまえる”よう脅されている。

そうやって権利や、可能性、自由を女性、そして弱者達は奪われていく。

ただ、“女性差別”というのはとても長い年月、そして多く(現在では約35億)の人々が受けている差別なのだ。
この差別が少しずつでもなくなっていくことはその他の問題の解決の糸口にもなるはずなのだ。



結婚同意年齢が男女で違った法律が直されたのは今年(2022年)。

女性の選挙権が認められたのは第二次世界大戦後(1945年)。

そして別姓婚は40年以上の闘争を経ても未だに認められていない。

苦しむのはいつも弱い奴らだ。
弱く生まれたかったわけでもない、弱くなりたかったわけでもない。
ただ強く生まれられなかった、ただ強くなれなかった。
どこにでもいる人間なのに、それだけなのに。


もちろん、男性全てがダメだとも女性全てが良いとも思わない。(それこそ差別構造と同じ考え方でしょう。)

さらにはこうあるべきだという結論もわからない。
だからといって黙っているわけにはいかないのだ。
先人が成したことを崩さないためにも、これからの人達が歩む道をならすためにも、隠れて行き過ぎるのを待つわけにはいかない。

誰かが言っていた、これは闘争なのだと。
自由と権利は与えられるものではなく自らの力で掴み取るものだと。

唯一男性に言うことがあるとするなら、謝罪も懺悔もいらないから闘え。だろう。

この社会システムの中枢にいる奴らが反旗を翻して加勢してくれたらどれだけ違うか。

他人事じゃないんだ、私も、あなたも。


言い訳はいらん、闘え。


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