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情報はすべて知るべきか、そうでないか:ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」から学ぶ③

 「薔薇の名前」シリーズ①は、実は「科学論文の抄録はどう描くべきか」を語っています。シリーズ②は、実は「科学論文をどう読み解くか」を書いています。さて、シリーズ③は、実は「科学とは何か」ということを書くつもりです。さて、書物における知恵と娯楽について、名著「薔薇の名前」の主人公ウィリアムと謎の老僧ホルヘとの対話について考察します。(小野堅太郎)

 主人公「バスカビルのウィリアム」は、修道院で起きた連続殺人の調査のため、主要人物たちに聞き取りを行います。その中で、盲目の老僧「ホルヘ」と「笑い」について議論を戦わせることになります。

 笑い、というのは、今でこそたくさんのお笑い芸人たちが活躍していますが、昔は「低級なもの」という扱いでした。小説の中でホルヘは「笑いはひとをサル並みに貶めるもの」と評価します。一方、ウィリアムは「ヒトしか笑わないのだから、むしろ笑いは理性のしるし」と反論します。ホルヘは厳格なキリスト教を維持するために「笑い」を否定する倫理を大切にする人です。一方、ウィリアムは倫理というより論理的思考を重要視しています。「ヒトは理性を持っているが、ヒト以外には理性がない。ヒトは笑うが、ヒト以外は笑わないので、理性と笑いは関連性がある」という三段論法で対抗したわけです。ホルヘは笑いによる社会の堕落を危惧する保守派で、ウイリアムは逆のリベラル派といったところでしょうか。物語の中では、ウイリアムとアドソは、笑いについて書かれたとされるアリストテレス「詩学」の第2章(ギリシャ語)が図書館にあるのでは?という手掛かりをつかみます。

 ホルヘを単純に「老害」とみなすことは簡単です。しかし、後に明らかとなるホルヘの博識さと照らし合わせると「笑いを知るがゆえに、笑いがキリスト教の根本を揺るがしかねない」との考えに至ったことは十分理解できます。ホルヘは、「すべての知識が、すべての人に公開されるべきではない」と考えていたのです。14世紀では「禁書」と指定されても、「情報」の価値が高いため、図書館の奥に保存されていたようです。知識の制限は、後の時代に現れる「焚書」となり、そしてマスメディアでの「情報統制」となっていきます。

 科学は、ウイリアムの様に「その時の倫理」に異を唱えてしまうことがあります。小説内でウイリアムの師匠として紹介されるロジャー・ベーコン(実在)は異端とされます。のちの科学者コペルニクスやガリレオも実際に苦しみました。「薔薇の名前」はこれから起こりうる「科学」の苦難を示唆しています。

 現在、「遺伝子編集」は人間社会を大きく変えてしまうかもしれない革新的技術です。昨年ノーベル賞を受賞したダウドナ教授は、倫理面での法整備を訴えています。医学においては強烈な福音となる可能性を持ち、同時に人間社会の倫理を揺るがす強烈なテクノロジーだからです。詳しくは、マナビ研究室の中富先生の動画をご覧ください(内容は明るいです!)。

 研究をしていると、思わず「倫理」を見落としてしまうことがあります。「倫理」はヒトが社会生活を行う上で必要と規定したものです。時代により、倫理は古くなり、新しい倫理が生まれてきます。ところが、科学は真実に近ければ近いほど「不変」です。そのため明らかとなった科学的事実が、その時の倫理に合致しないことがたくさんあります。前の記事にも書いたように、科学はその倫理のために、ゆがめられる運命にあります。

 「薔薇の名前」は多重構造になっているので、いろんなことを読み取ることができます。エーコの言葉に「理論化できないことは、物語らなければならない。」というのがあります。簡単に言うと「なんだかよくわからない人間社会のことは、物語でしか表現できないよね。」ということでしょうか。ヒトが宿命として背負った「知ることへの熱意」に対する肯定と批判が入り混じった素晴らしい小説だと思います。

 是非、未読の方は本を読んでください。探偵部分を楽しみたい方は、探偵部分のみでまとめられた映画があります。先日亡くなったショーン・コネリーがウィリアムを演じています。アドソはクリスチャン・スレーターで、彼のデビュー作です。後のアクション俳優としての面影はありません。

 まだ「薔薇の名前」について語りたいことはいっぱいあるのですが、ここでいったん終わらせようと思います。それでは、皆さん、またお会いしましょう!



 

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