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論理性が感情論に勝てない理由

前記事で、喜怒哀楽の感情表現が共感を通じて社会的有用性をもつことを説明しました。この観点を踏まえて、巷にあふれる感情論を論理性が打ち負かすことができない理由について考察します。(小野堅太郎)

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 最近、「論破」という言葉をよく聞きます。相手の非合理性をつくことだと思いますが、そもそも合理的に話をするのはかなり大変なので、相手の非合理を指摘するのは簡単です。つまり、論破は相手をやり込めたことにはなりません。相手に怒りを生ませて楽しむのであれば、論破することは自己完結的で、社会的には無用な行為です。ですので、論じて相手と一緒に考えて、より合理的な考えを新たに提示することが重要です。

 多くの場合、感情論は共感を生みますので、集団を作ります。報道やSNSを介して社会の中に大きな集団を形成します。政府に対して怒りを感じて集まったデモが行われることがあります。初めは小さかったデモ隊も、共感する人たちが集まることで大きくなっていきますが、なかなか外の人たちには届きません。しかし、政府側の攻撃によりデモ隊に死傷者が出たりすると、一気にデモ隊は人数が膨らみます。哀しみの強力な感染性共感により力を持ってくると「勝つ可能性」を産んで、哀しみは怒りへと転じます。ボブ・マーリーの歌なんかは、この塊みたいなもんです。

 こういった感情論による集団化プロセス(過程)に対して、どうあがいても論理的に人の心を動かすプロセスは太刀打ちできません。人の歴史において、論理的弁証が有効に働いたのは、「科学界」のみです。社会学や経済学では確かに論理的理論が社会的に成功を収めている例外がありますが、その普及には感情に基づく社会背景が原動力になっていたケースが多いように思います。

 つまり、社会において、はなから論理は感情に勝つことはできません。例えば、「賄賂が悪いことの理由を説明せよ」と言われたら、感情論では「金を持っている人だけが優遇されてずるい。不平等だ!」となります。共感できますよね。一方、論理的に説明しようとすると、かなり長くなり、必ずしも悪くないという話が入ってきてしまいます。「賄賂が禁止されている環境において一部の人間が秘密裏に金銭の受け渡しを行い、他者を出し抜いて恩恵を被るのは違法行為である。また、受け取った権力者側も同罪である。しかし、能力主義で考えた場合、金銭を渡した側は努力により金を稼ぎ、その資産を消費している。また、権力者側も努力によりその座についており、なんらかの利得を得る権利を持っている。金銭の授受を行えなかった者は当然に不利益を被るとの考え方も成り立つ。ゆえに、賄賂が違法ではない、もしくは明確な金銭の授受と判明しないのならば、悪いと判別することは必ずしもできない。」となります。全く共感できません。揚げ足をとって、論破したくなります。

 「三体」という中国SFがあります。三部作あり、話が繋がってますが、それぞれ毛色が異なっています。一作目の「三体」は文藝SFサスペンスで、超弩級に面白かったです。主人公より、とにかく史強(シー・チアン)の活躍がたまりません。二作目の「三体 暗黒森林」では(史強も出てきます)、主人公は羅輯(ルオ・ジー)という名で「論理」という意味です。羅輯は三作目「三体 死神永世」でも結構酷い目に遭うのですが、基本、大衆に理解されず、論理を内に秘めて迫害を受けながら、来るべき論理の勝利まで待ち続けます。論理が勝つのは難しい、を実感できますので、興味がある方はご一読を。

 「論理は感情論に勝てない」と諦めるのは簡単です。「論理を理解できない大衆は愚民だから滅びればいい!」なんて炎上案件のコメントが出てくるかもしれません。それでは感情に流されてますので、論理性がそもそもなくなってしまいます。論理的に考えて「感情論に勝てない」という結論なら、そのまま受け入れるのが論理的です。そして、どうしたら論理的方法論を感情論から受け入れてもらえるか?を考えるべきかと思います。「三体」にキーとなる書物として「沈黙の春」が出てきます。科学的記述が人の心を動かした数少ない成功例かもしれません。

 論理を広めるためには、感情論への転換が必要です。これまでは、小説・漫画・映画といった物語を通じて、感情論へと転化されています。2年以上続くコロナ禍で感じたことは、「科学を物語として伝える人たちの重要性」でした。マスメディアでは、特に取り入れてもらいたい課題です。

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