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喜怒哀楽の社会的有用性

 喜怒哀楽は人間の基本的な感情表現だが、存在するからには社会生活での利点があると思われる。以前、論理性と感情論は混じりあわないとの記事を書いたが、感情を論理的に考察してみたい。(小野堅太郎)

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喜怒哀楽総論

 喜怒哀楽は感情であって、必ずしも顔やしぐさで表現されなくても、脳内で生じてしまいます。つまり、喜怒哀楽は表に出るだけでなく、心だけに生じていることもあるわけです。ヒトが集団性を獲得して社会に協調していくうえで、なんらかの利点があったために喜怒哀楽という能力を獲得したわけです。感情の反応抑制・修飾能力は、ヒト種で大きく発達した前頭前野が関与すると考えられています。

 感情表現の大きい小さいは関係なく、我々は脳の内部で原始的な喜怒哀楽感情を生じているわけです。その根源的な喜怒哀楽はどこで生成されているかというと、大脳辺縁系(古皮質と旧皮質)と呼ばれる部分です。特に、扁桃体や中核核の研究が盛んです。ここを電気刺激すると、サルやネコで感情表現が引き起こされることが昔の研究からわかっています。

 さらに、この大脳辺縁系を調節しているのが、さらに内部にある視床下部と呼ばれる脳領域です。ここには三大欲求と言われる食欲、性欲、睡眠欲を生み出す「中枢」が存在します。この脳領域に存在する欲求が満たされたり、満たされなかったりすると大脳辺縁系で感情が生成され、前頭前野による状況判断により感情が表に出てくるわけです。

 個や種の生存のためには三大欲求は必須ですので、複雑なヒト集団社会へと発展する前から、原始的な欲求に基づいた感情は既に存在していたと考えるべきです。表情やジェスチャーによる視覚的表現や「うれしい!」などの言語的表現の目的は、明らかに「他者に自分の感情を伝えること」です。感情豊かな人とは、この感情表現が多彩な人です。よって、感情が社会(コミュニティー)の形成に何らかの役に立っていたことは間違いありません。

 本記事では「喜怒哀楽」を文字通り4つの感情に分割して考察します。議論が混乱するのを避けるため、一つ一つ簡単に定義してから社会上の利点について議論していきます。

1.喜びによる承認欲求

 喜びは快楽もしくは満足感のことで、欲求が十分に満たされた状態であるとしましょう。欲求が充足して不満・不安が取り除かれたときに、喜びが生まれます。例えば、自分が努力して受験合格や事業に成功したような時です。面白いのは、誰かに食事を作ったり、プレゼントした時に「ありがとう」と感謝された時にも喜びは生じます。つまり、喜び表現は「自分は喜んでいます」を他者に伝えるだけでなく、「感謝」という追加表現により「他者を喜ばせる」という側面も持ちます。

 感謝にお金はかかりませんが、感謝された方は「喜び」を得て、自己承認欲求が満たされます。互いに感謝し合うことで、他者との間に絆が生まれて強固な集団が形成されます。喜びが個人に留まった場合は「自己中心的」として批判的対象となりますが、感謝があればそうはなりません。子供へ「嬉しい時には感謝する」ことを躾けるのは、その子の将来の社会生存性を確保するために必要な教育であるといえます。

 社会とは集団化であり、別集団と闘争したり、融合したりします。集団化により個人では到底得られない力を得ることができ、その集団は大きな収穫を得て、富や知識を分配することでさらなる「喜び」を共有することができます。

2.怒りによる欲求伝達

 怒りは不快もしくは不満・不公平感のことで、欲求が満たされていない状態だと思います。欲求が満たされなかった場合に短期的に怒りが生まれます。怒りは時間が経つと薄れて反省することが多々あります。怒りはしばしば暴力に繋がり、怒りの対象ではない相手や物に振るわれる場合もあります。不快・不満状況が解消されなければ長期化して、怒り感情は増幅したり、嫌悪という形で心(脳)に残ります。

 小野が、家族や職場、社会のことで怒りを感じる時は、大体「自分の思うように自分ではどうにもならない」ときです。お店で幼児が大声で泣いている時がありますが、幼児の「欲しいものを親が買ってくれない」という不満が怒りとなっているわけです。そこで、親が「泣き止まそうとしても子供が泣き止まない」という怒りを生んで、どうしようもない状態が生まれます。喧嘩というのは全部これと同じで、勝った方が怒りを収めることができます。要するに、怒りは「わがまま(自己中)」であり、喧嘩はわがまま同士の戦いということになります。怒りを感じたら「あー、わがまま言ってる!」と自分自身を非難しましょう。

 さて、この厄介な怒り表現は、社会において「自分の意見(欲望)を通す」上において重要です。意見を通すためには、周囲の他者が我慢しなければなりませんので、新たな怒りを周囲に引き起こしてしまうこともしばしばです。一方で、怒り表現は周囲の他者が一致して別の他者に怒りを感じている時は「怒りグループ」が結成されます。個の怒りが集団の怒りとなり、利益の共有が起きるわけです。革命(社会変革)というのは、この怒りを発端としているのでしょう。

3.哀しみによる共感伝達

 哀しみ(悲しみ)は諦めであり、欲求そのものを抑えなければいけない状態だと思います。怒りを飛び越えた先にある「どうしようもない」という感情です。哀しみには、恐怖(恐れ)も含まれます。怒りは「どうにかなるのに、どうにもならない」という嫌悪(反発)だとすると、哀しみは「絶対どうにもならない」という納得した上での服従(受容)ともいえます。強烈な哀しみといえば「死」です。どうにもなりません。

 怒りとは違って、哀しみは受け入れる以外の選択肢を持ちません。他者による理不尽な行為に対して「怒り」を感じるのか、「哀しみ」を感じるのかは、当人の「価値観」に依存します。状況を変えられる可能性があるのなら怒りを、変えられないのなら悲しみを感じます。哀しみが浅ければ、他者が喜びを与えることで多少は癒されるでしょうが、哀しみが深ければ癒されることはありません。そうだとすると、深い哀しみは絶望となり、生きている存在価値を奪ってしまうこともあります。忘却という記憶の消去が起きるまで、哀しみを消すには長い時間がかかると思われます。

 哀しみ表現は、他者へ共感を産み、自分ではなく他者が問題を解決してくれる可能性を残します。そうして「どうしようもない」社会に対して倫理・道徳といった社会ルール(法律)を作ることでなんとか対抗しようとしています。しかし、いじめや差別、戦争といった哀しみの連鎖は、解決されないままであることが多いです。

4.楽しさによる自己満足

 楽しさは、喜びと混同しやすいですが、自己努力により満足感を満たそうとする状態であるといえます。喜びや怒りが他者への主張であるのに対して、哀しみ(悲しみ)と同じく、楽しさは自分自身に働きかける作業です。哀しみとの違いは、満たされない欲求を抑え込むのではなく、他の事象で自分の心(脳)を満たそうとするものです。結果的に心が満たされれば、楽しさは喜びとなります。

 どんなに大きな怒りやつらい哀しみがあったとしても、楽しむことで喜びを得ることができます。自分の趣味に打ち込んで楽しんだり、TVやYouTube、映画や小説などの娯楽を楽しむことで、欠落した満足感を充足させることができます。笑いは典型的な楽しみ表現です。お笑い番組では、映像に笑いが継ぎ足されます。昔の「ドリフの大爆笑」ではコント内に大量の爆笑音声が入っていました。現在は、わざとらしいということで、撮影スタジオのスタッフの笑い音声が入ってきます。つまり、笑い声という楽しさ表現は「今は楽しいんだ」という気持ちを喚起してくれるわけです。

 ただし、楽しみには暗黒面があります。「ある個人や集団を馬鹿にしている」ときにも起きるからです。現代では、差別に関しての倫理観の変化が早いため「昔のお笑い番組が放送できない」事態が発生しています。あと、いじめや誹謗中傷にも同じ側面があります。楽しみの暗黒面に落ちてはいけません。映画「ライフ・イズ・ビューティフル」では、喜怒哀楽を描いた傑作です。笑いの効能については語るより、この映画で感じてください。

喜怒哀楽における2つの共感

 まとめると、喜怒哀楽といった感情表現は、社会の中で自分が幸せを得るために利点があるということになります。感情表現は、自分を他者に置き換える「共感」を作ることで、その集団を一体化させる能力があります。理想のリーダー像として「感情表現が豊かな人」が上がってくるのは、「共感できるリーダーは自分と同化できる」からです。集団を取りまとめる他者が自分の欲求を満たしてくれるわけですから、当然、そんな人をリーダーとして望むわけです。

 では、共感とは何か、についてさらに掘り下げてみると、2の過程(プロセス)があります。1つ目は、自分と同じ感情を有する他者を同化させるプロセスです。これを仮に同化性共感と呼びましょう。2つ目は、他者の感情表現から自分の中に無かった新たな感情を生じさせるプロセスです。具体的には、ニュースで遠い外国の飢餓について聞いたり、何らかのブームに便乗したりすることです。本来症状のない他者に感情をうつしてしまう特性に基づいて、感染性共感と呼びましょう。

 同化性共感は喜怒哀楽4種類ともに共通に有していますが、感染性共感は喜怒哀楽それぞれで作用の大小があります。怒り表現はあまり他者に感染しませんが、哀しみ表現は非常に多くの他者に感染します(同情)。哀しみほどはないですが、楽しさ表現も感染します。喜び表現は、非常に身近な他者(家族)には感染します。感染力としては哀>楽>喜>怒の順でしょうか。

 最近、Twitterでは倫理的怒り(moral outrage)の社会増幅がある、との報告があったようです。同化性共感に加えて、SNS独自の「いいね」や「リツィート」という気軽な報酬が、「怒」の感染性共感の性質を変えているのかもしれません。

喜怒哀楽の社会的有用性からわかること

 感情というよくわからないものを喜怒哀楽という観点から分解してみましたが、科学的根拠はありません。人間は因果な生き物です。家族や学校、社会、国、世界という集団単位を形成し、その中でしか幸せが得られず、それ故に満たされません。喜怒哀楽には欲求のコントロールという役割があり、その感情表現から社会を集団化し、共感による感情の拡散によって力を得る有用性があるようです。

 「感情表現」という言葉を使ってきましたが、表現にはジェスチャーと言葉の2つがあります。インターネットの普及により、SNSではTwitterやFacebookなどで言葉による感情表現ができるようになりました。さらには、ジェスチャーも伝えることができるYouTubeが出てきています。過去には、ラジオやTVがそれを行っていましたが、一部の出演者だけでした。現在は、誰でも広く社会に伝えることができます。感情表現が圧倒的な力を得てきています。一方で、科学は言葉を「情報伝達だけ」に特化し、感情表現を極力排除してきました。結果的に「象牙の塔」のような隔絶した科学社会が形成されてしまったのです。いろいろ考えなくてはいけません。

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