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東大と日本高等教育の変遷

 東京大学といえば、日本で一番入学試験の苛烈な大学です。もうそれだけで特別なようですが、近代日本の発展において不可欠な組織であったという話をします。(小野堅太郎)

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 日本で最初の大学といえば、東大です。過去の記事で、13世紀イタリア・フランスで大学が生まれたという話をしました。私塾のような小さなものから規模が拡大し、教員・学生の集まりからなる組合(ユニベスシタス)が組織され、ユニバーシティとなりました。日本での「大学」という言葉は、奈良時代の律令制の中で設置された官僚育成機関「大学寮」に由来しています。つまり、東京大学は「明治政府の官僚育成」のために始まったとみなせます。現在の大学(ユニバーシティ)の機能を持つのは1886年(明治19年)の森有礼文部大臣による「帝国大学令」からになります(学位もこの時から始まります)。

 東京大学の歴史は、日本の高等教育の歴史です。元々は江戸幕府の儒学学校である昌平黌に端を発します。明治改元後の1869年(明治2年)、儒学に加えて国学を学ぶ昌平黌を「大学」本校としました。さらに洋学を学ぶ2校が「大学」に追加されます。本校から東にある医学校(種痘所を起源)を大学東校とし西洋医学を学び、南にある開成学校(幕府天文方を起源)を大学南校として西洋理学、イギリス・ドイツ法や外国語を学びます。本校で儒学者と国学者がいがみ合いが続き、明治政府はこれを機に翌年本校を早々に廃止してしまいます。本校が無くなったので、大学東校と大学南校はそれぞれ単純に「東校」と「南校」と呼ばれるようになります。

 この時期、後の東京大学法科と工科になる官立専門学校(カレッジ)ができています。司法省管轄の裁判官・検察官養成のための専門学校「明法寮」が設置されます。学生は西校から優秀な学生を引きぬいてフランス式法曹を教育したそうです。もう一つ、日本の工業化のために設置された工部省の管轄専門学校として「工部寮」ができています。

 これにより日本は西洋学問への一元化に踏み切ったわけです。1872年(明治5年)の学制の発布により、東校は第一大学区医学校に、南校は第一大学区第一番中学になります。それぞれ2年後に東京医学校と東京開成学校という改称を経て、1877年(明治10年)に両校が一緒になって「東京大学」が誕生します。とはいえ、法科と工科は組み込まれていません。時代はまだ国造り真っ最中。学問を究めるより、官立専門学校による法曹・技術者排出が急務です。現在の東京大学ユニバーシティではなく、小規模な官僚育成学校としての東京大学でした。

9年後の1886年(明治19年)、第一次伊藤内閣での文部大臣、森有礼により東京大学は「帝国大学」と変貌します。前年に明法寮(当時は東京法学校)を先に組み込んでおいて(法政学部)、続く工部寮(当時は工部大学校)の合併により、帝国大学が誕生します。4年後には、東京農林学校も合併します。帝国大学工科大学と帝国大学農科大学が加わり、教授40人以上、学生定員400人による日本初の総合大学(ユニバーシティ)となります。ちなみに、工科(工学部)の大学設置は世界初のことです。

 歴史には、理由があって物事が引き起こされます。東京大学から帝国大学への転換の間にいろんなことがあったわけです。この9年間を解き明かしてみましょう。

 まず、明治14年の政変(1881年)がありました。憲法やら官有物払下げなどで揉めた末に、伊藤博文(長州)によって大隈重信(肥前)は失脚させられます。これにより薩長土肥だった政治体制が薩長独占状態になります。大隈重信は翌年、早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立します。大隈は慶應義塾の創設者の福沢諭吉と並んで自由民権運動を支援し、政府と対抗することになります。特に、慶應出身者たちは経済的にも成功して、日本経済界に影響力があります。なんとか政府側のちゃんとした学校が欲しいところです。

 1885年(明治18年)に井上馨と山形有朋という長州・萩出身の二人に推薦され、同郷の伊藤博文が初代内閣総理大臣になります。文部大臣には薩摩出身の森有礼が就きます。この二人、20年前に幕府に隠れて密航し、イギリスで出会った経験を持ちます(伊藤24歳、森18歳)。森は1875年(明治8年)に商法講習所という私塾を渋沢栄一の援助により開設していますが、一橋大学の起源となります。

森有礼の考えた大学は、海外の総合大学(ユニバーシティ)に肩を並べることでした。コンセプトは「天皇を中心とする日本帝国に寄与する人材を育てる!」というもので、それで「帝国大学」になるわけです。フンボルト大学から始まる近代の大学は「大学は、国家に仕える人材を作るのではなく、個が自分で考えて世の中を切り開く人材を作るのだ!」というスタンスですので、ちょっと違います。どちらかというと、福沢・大隈の大学観の方がフンボルト大学の理念に近いかと思います。帝国大学ができて3年後の1889年(明治22年)、森有礼は反感を持つ者に刺されて亡くなります。

 1897年(明治30年)、京都にも帝国大学ができることになり、東京にある帝国大学は「東京帝国大学」となります。1907年に東北帝国大学、1911年に九州帝国大学、1918年に北海道帝国大学、1924年に京城帝国大学、1928年に台北帝国大学、 1931年に大阪帝国大学、1939年に名古屋帝国大学が設立されます。国内の7校がのちに「旧帝大」と言われる国立名門校になります。京城帝国大学と台北帝国大学は、それぞれ現在のソウル大学校と台湾大学の元となっています(学校としての連続性はありません)。

 東京帝国大学は、戦後の1947年に「東京大学」と改称され、1949年に現在の〔新制〕東京大学となります。つまり、東京大学という名称には3期あり、1回目と2回目の間に「帝国大学→東京帝国大学」が入ってきます。ちゃんとした総合大学の形をとるのは帝国大学になってから、ということになります。森有礼は直ぐに暗殺されますので、自分の作った日本教育制度の行く末をほとんど知ることはありませんでした。これは幕末・明治における薩長土肥出身者の宿命ともいえるのですが・・・。

 東京大学に縁も所縁もないものが「東京大学の歴史」を書かせてもらいましたが、日本の大学教育を紐解くには欠かせない話です。前に北里柴三郎先生を紹介させてもらいましたが、彼は東京医学校の時に入学し、1回目の東京大学のときの医学部を卒業していることになります。ドイツから帰ってきて東大派閥と揉めてるときは「東京帝国大学医科大学」になっています。

 この記事の基本的な流れは以下の本を一部参考にさせてもらいました。大学生には、是非読んでもらいたい本です。

「大学とは何か」吉見俊哉(岩波新書)

 いつか東京歯科大学についても書きたいなぁ・・・

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