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明治時代の感染症研究者:シン千円札の北里柴三郎(前編)

 千円札の野口英世が、2024年から北里柴三郎に代わる。明治という時代を考えると奇跡的にすごい研究者なのだが、北里の弟子にあたる野口英世の方が良く知られている。マナビ研究室の動画でも何度も取り上げていて、小野の同郷熊本出身の著名人なため多少肩入れしてしてしまうが、ホントにすごいので紹介したい。(小野堅太郎)

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 本記事の元ネタは「北里柴三郎 雷と呼ばれた男 新装版」(山崎光夫著、中公文庫)と「北里柴三郎 伝染病の制圧は私の使命」(北里研究所、2012年)である。前者はアマゾンで購入可能で、北里ファン必読です。後者は、阿蘇小国町北里にある北里柴三郎記念館にて購入しました。

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誕生

 浦賀にペリーがやってきた黒船騒動の1853年、熊本県阿蘇郡小国郷北里村に北里柴三郎は生まれています。現在でも閑散とした山奥です(南小国の皆さんスミマセン)。ここからトンデモナイ世界的細菌学者が誕生したのです。小野は、柴三郎ファンなので北里柴三郎記念館を何度も訪れており、同郷からの偉人として大変尊敬しています。

幼少・青年期

 北里柴三郎は8歳から10歳まで、漢学者である大叔父のいる橋本家に預けられ、この時代の例にもれず「四書五経」の素読教育を受けます。10歳から4年間、母の実家である加藤家に預けられ、私塾で儒学を学びます。すなわち、子供時代の教育はばっちり受けていました。血の気の荒い熊本人ですので、武道を習いたい柴三郎ですが、加藤家は他藩ですので「他藩出身者には武道を教えられない」という規則のため、熊本の細川藩藩校「時習館」を目指すことになります。親の許可を得て、阿蘇から熊本へ行き(当時は歩いてなので朝出て真夜中に着く感じ)、儒学者たちの門下に入り、1869年、16歳で時習館に入寮します(明治2年)。

 ところが、翌年の廃藩置県で時習館が廃校となってしまいます。そこで、大阪にできた軍学校への進学を希望するも親に反対され、新しくできた古城医学校(明治9年に熊本医学校)にイヤイヤ進学します(明治4年、18歳)。この医学校に、オランダ人医学者のマンスフェルトがやってきて、柴三郎の将来が大きく決定づけられます。

 マンスフェルトは長崎の精得館(後の長崎医学校)で教鞭をとっており、任期終了により新しくできた熊本の古城医学校(兼病院)へやってきたわけです。柴三郎はオランダ語を勉強してマンスフェルトの講義を通訳するまでになります。医学に興味を持てない柴三郎に対してマンスフェルトは「医学の重要性」を説き、そして「顕微鏡」の使い方を教えて新しい医科学の世界を伝授します。

 マンスフェルトのススメもあって、21歳の柴三郎は東京医学校への進学のため、東京へ向かいます。お金がないのでアルバイトしながら勉強に励み、さあ受験となった22歳の時、受験に「20歳以下」という年齢制限があることを知ってしまいます。しかし、時は時代の混乱期です。アイドル並みに年齢を4歳若くさばを読んで入学を果たします。そういう時代なんです(逆に森鴎外(林太郎)は、2歳プラスして入学しています)。

 当時、明治政府は医師の免許制に踏み切り、医師資格の法整備として「医制」を作ります。また、江戸時代からの漢方医学およびオランダ医学を捨て、プロイセン(ドイツ)医学に舵を切ります。

内務省衛生局勤務

 東京医学校は明治10年に「東京大学医学部」となり、柴三郎は明治16年(1883年)に卒業します。30歳(表向きには26歳)となっています。この当時は、医者になるには医術開業試験に合格すれば医業を行えたわけですが、大学卒業者は無試験でOKでした。学生時代からバイトで内務省衛生局(今でいう厚生労働省?に当たる)で働いていたこともあって、そのまま就職します(卒業と同時に結婚)。

 内務省衛生局長といえば長与専斎です(東京医学校の校長も兼任)。長与は、緒方洪庵の適塾で福沢諭吉の後任として塾頭になったのち、長崎の精得館に学び、マンスフェルトから医学を習っています。つまり、柴三郎と共通の師を持っています。柴三郎の才能に賭けた長与専斎は、日本の感染症対策として最新研究学問分野である細菌学の世界へ柴三郎を投入します。(下のWikipediaリンクの写真は老年期のものです。長与は北里の15歳年上ですので、当時はまだ45歳です。)

 柴三郎の古城医学校時代の同級生に緒方正規がいます。緒方は、1年で熊本の医学校を辞めて東京医学校(当時、第一大学区医学校)へ進学し、ドイツ留学で細菌学者コッホの弟子レフレルに学び、帰国していました。明治18年(1885年)、内務省衛生局管轄で東京試験所が設けられ、ドイツ仕込みの細菌研究室がこの緒方正規によって整えられます。北里柴三郎は東京試験所に派遣され、熊本時代の同級生の緒方から細菌学を習うわけです。

 細菌培養は、シャーレに栄養物を入れた寒天を張り、その上に菌体を薄く塗って暖かい環境に静置します。そうすると、菌が増えて肉眼でも見えるようなコロニー(塊)を形成します。それをスライドガラスに塗り、各種、染色を行うことで、菌の形と色から細菌を特定していきます。多くの菌は熱で死にますので、高圧滅菌器が必要ですし、顕微鏡や染色に必要な器具などが揃っていないといけません。

 勤務から数か月後、長崎でコレラが流行したのを受け、柴三郎は長崎で患者隔離と予防指導を行い鎮静化させます。この時、自力でコレラ菌を確認し、報告しています。この辺のエピソードは「北里柴三郎 雷と呼ばれた男」で熱く描かれており、ワクワクしました。この業績により、既に決定済みだった1名のドイツ留学に、無理やり北里柴三郎が追加されます。

ドイツ留学

 19世紀に「大学が復活した」という記事を以前書きました。フンボルトにより創設されたベルリン大学(1810年創設)です(現在は、フンボルト大学)。ここにフランスのパスツールと共に「近代細菌学の祖」とされるコッホが研究室を運営していました。コッホは、現在でも頻繁に用いられているシャーレや寒天培地を開発しています。「病原体」として微生物を感染症の原因として証明するための「コッホの原則」を打ち立て、当時の世界において最新の医学研究が行われていました。

 33歳の北里柴三郎は妻を日本に残し、コッホの元で研究を始めます(1886年)。当時の東京大学医学部では医学講義のほとんどがドイツ人医師によるドイツ語授業ですから、ドイツ留学といっても言語の障壁はかなり低かったと思われます。元々は3年間の留学予定だったのですが、延長に次ぐ延長で計6年間もドイツにいました。異例の留学から始まり、異例の延長でした。推測ではありますが、感染症の世界的権威となったコッホの指示を仰ぎたい日本政府としては、北里を手放したくないコッホの押しに負けてしまったのかもしれません。

 では、コッホに期待された北里柴三郎がどんなに凄かったかというと、当時の日本人留学生の中ではずば抜けています。

破傷風菌の純粋培養

 留学当初は、コッホからの指示で細菌を様々な条件で培養するというテーマだったようです。要するに、「何のために研究してんの?」というような実験です。温度変えたり、pH変えたりとか。あまりにも単純な実験で普通の人はやりたがらない実験です。

 そんな中、柴三郎はどうやっても増えない菌である「破傷風菌」の培養に成功します。破傷風菌は現在、嫌気性菌(酸素のある環境では増殖しずらい菌)として知られていますが、当時はそんな菌が存在すること自体わかっていなかったのです。彼は、いくつかの爆発事故を起こしながらも、水素ガスを使って空気(酸素)を追い出した実験条件で破傷風菌の培養に成功します。さらに、やらされていた熱の実験も組み合わせると、破傷風菌は熱で死なない(芽胞形成)ことから、検体サンプルを一度熱処理してから他の菌を死なせたうえで嫌気性培養すると破傷風菌だけが成長します。つまり「破傷風菌の純粋培養」に成功したわけです。

免疫学の幕開け

 実験動物に破傷風菌を接種すると発症します(症状については過去記事参照)。ところが、接種部位以外に破傷風菌が観察されないことから、「破傷風菌から毒素が出てきて、全身に作用しているのでは?」と考えます。証明するため、新規に細菌ろ過器を考案し、回収した無菌の培養液を実験動物に投与すると破傷風を発症しました。つまり、柴三郎の毒素仮説が正しかったわけです。

 さらに、この毒素を調べ上げて、三塩化ヨウ素で無毒化されることを突き止めます。この無毒化毒素を動物にあらかじめ打っておくと、あとで破傷風菌を接種したり、活性化毒素を打っても破傷風を発症しないことに気づきます。ジェンナーの天然痘ワクチンと同じことが起こったわけです。時代は、細菌学を基にして免疫学へと推移していました。

 ここで柴三郎は満足せず、「血中に毒素を中和する物質(抗毒素)が新たにできたのでは?」と考えます。そこで無毒化毒素を投与された動物の血液を採取し、他の動物に血清を投与すると、この動物も破傷風を発症しませんでした。おお、血清療法の誕生です。抗毒素とは、今でいう抗体のことです。さらなる抗体の謎を解き明かすのは、20世紀、利根川進先生に依るのですが、抗原抗体反応の原理は中富先生の初YouTube動画を参考にしてください。

 この北里柴三郎の研究を基にして、同僚のベーリングがジフテリア免疫についても明らかにします。彼との共著で成果を1890年に発表します。1901年から新設されたノーベル賞ですが、その第一回ノーベル生理学・医学賞はベーリングのみが受賞しています。現在であれば、100%北里柴三郎も受賞していたでしょう。この当時は、共同受賞、さらにはアジア人が受賞対象になるなんてことは露ほども想定されていませんので仕方ありません。現在の日本では、ノーベル賞受賞というとお祭り騒ぎになりますが、当時はそんなことなかったわけです。柴三郎自身も「受賞を逃した、悔しい!」とは全く思っていなかったと思われます。

 免疫論文発表の翌年となる1891年、ロンドンで万国衛生会議が開かれます。世界中の細菌・免疫研究者が集まります。23人の有名な研究者(食菌細胞説のメチニコフなど)の集合写真が残っていますが、白人研究者の群れの中央に北里柴三郎が堂々とした姿で写っています。科学界で彼が認められていた証拠です。ちなみに、小野の大好きなイギリスの神経学者シェリントンも右端に写っていて、嬉しかったです。

 そんな世界標準の基礎研究者である北里柴三郎ですから、批判精神たっぷりです。留学中に、緒方正規の「脚気は伝染病である」という論文主張を「全然なってない」と批判します。オランダ人研究者の同じ論説にも批判しています。後者のケースでは、サンプル提供してもらい、明確に間違いを証明するのですが、そのオランダ人研究者からものすごく感謝されています。研究者とはこういうものです。緒方正規も別に「研究上の論争」という立場で、柴三郎とはその後も仲良くやるのですが、当時、東大医学部教授となっていた緒方の同僚たちは違いました。

 「あいつ、師匠を裏切りやがって!」

 と、さんざん批判されることになります。留学時代に一緒だった森林太郎(鴎外)もメチャ批判してます。そんな日本での東大グループによる批判的な雰囲気渦巻く中、柴三郎はコッホに惜しまれつつ日本へ帰国します。

後編をお楽しみに。


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