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「親友」は時として締めつけになる


親友なんて、いらない。子どもの頃、思ったことだ。 


親友とは、一番仲の良い友だちのことを指すんだろうか。それだけいつも一緒にいて、信頼できる友だちがいるというのは、素晴らしいことだと思う。


でも、わたしはあまり「親友」ということを意識しないようにしている。正確に言うと、「親友」は誰かと決めてしまうこと、「親友」は誰であるかを周囲の人たちに公言してしまうこと、周りの人たちがいる前で特定の誰かと「親友」感を出すことが好きじゃない。時として親友を、その周りの人たちをも締めつけてしまうような気がして。親友かどうかなんて、決めたくないし決められたくもない。誰かと誰かが親友であるとわかると、わたしはその2人の近くにはいてはいけないような気がした。考えすぎだろうか。


「わたしたち親友だよね〜」なんて言っている子たちを見ると、いつも悲しい気持ちになった。小学生時代に流行ったプロフィール帳にも「しんゆう」の欄があった時、どう書くか迷ったっけ。


わたしにも特に仲が良い子というのは小中高大、どこでもいた。でも「親友」と公言することはしたくなかった。「〇〇ちゃんと親友なの?」と聞かれた時は、何となく濁して「仲は良いよ!」などと答えるようにしていた。


それに、わたしは仲が良い子がいたとしても、「親友だよね」なんて言える自信はとてもなかった。じぶんが親友と思っていたとしても、相手はそうは思っていないとわかったら、きっと落ち込んでしまう。だから親友が誰なんて考えたくない。



「親友」と言わない場合でも、締めつけになることもあった。

「あ、きっとこの2人は親友なんだろうな」って、言葉では言わないが「親友」感が出ている時。この時が、「親友」という概念が嫌いになった一番の原因だと思う。


特に女子3人になった時にあるあるなこと。ふと、取り残されたと感じて辛くなったことがある。全然じぶんの方を向かず、2人しか通じない話題をし続けていた時は、今じゃなくてもいいじゃん、って思った。その時に取り残された人の気持ちを考えたことはあるのだろうか。2人だけの世界に入った時、もう1人はどこを向いてどんな反応をすればいいのか考えたことはあるのだろうか。何度も怒りを覚えていたけど、こんなことで悩んでるのなんてじぶんだけだと思って気持ちを抑えてた。必死についていっている感を出そうと笑顔になったり、相槌を打ってみたこともあったけど、なんだか虚しくなるだけだった。



いつからだろう、そんなことどうでもよくなったのは。大人になって周りも昔ほどあまり群れなくなって、自然とあの時覚えていた怒りも消え去っていった。大人になって、「誰と誰が仲が良い」とかで悩んでいた自分を振り返ると、なんて小さなことで悩んでたんだろう、と呆れてしまう。あの頃のわたしは、休日でも家でも「親友」の悩みを考え続けたこともある。もったいない!その時間を読書や趣味にもっとのめり込んで自己投資したらそんな悩み吹っ飛ぶよ!とあの頃のじぶんに言ってやりたいけど、すぐに悩みのタネが消えるほどの強さは、わたしにはなかったと思う。


言えるとしたら、なんだろうか。その2人の輪に入ることだけが全てじゃないよ、かな。そんなことわかっても、子どもはどうしても学校が中心になるから仕方がないけど。


でも、じぶんが傷つくことがわかっていた分、周りの人たちに「親友」感を出すことはしなかった。小学校時代に1人すごく仲が良い子がいて、「親友」と言えるほど仲が良かったと思うけど、他の子とも一緒にいる時には、みんなが楽しめる遊びや話をしようとしていた。悩んだじぶんだからこそ、取り残される人を作りたくないと、小さい頃ながらに意識していた。じぶんで言うのも何だが、その瞬間は周りの子よりもちょっぴり大人になっている気がして嬉しかった。



このことは、小中学生のころ特に悩んできたことだったけど、ずっと誰にも話したことはなかった。当時毎日書いていた日記にも書いていなかった。大人になって、どうでもいいじゃんって思うようになったけど、ふと思い出してみると、あの頃の精一杯のじぶんの想いや感情を忘れないようにしようと思って、書いてみた。

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