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「誰しもに開かれている」まちづくり。

仙台駅で、駅前の大通りを大幅に車線減してそこに歩行者向けのスペースをつくる、という社会実験が先日まで行われていました。
いつもは車道の場所にベンチを置いてみたり、なんと焚き火が行われていたり(!)、いろいろな取り組みが行われていたのですが、
その取り組みに関わられていた方のFacebook投稿が素敵だったので、今日はそのシェアから。

地方都市では、良くも悪くも、地元の街を歩けば知り合いに会い、噂話は次の日には近所のほとんどが知っている。
地縁や地域の結びつきの強さは、必ずしも良さだけではなく、生きづらさと表裏一体である可能性もある。
それは、転勤族やヨソモノだけでなく、親の行動圏でしか動けない、中高生も同様である。

Facebookより引用

仙台駅前のあり方を考える上で、通勤通学の途中に、懐の深い公共空間を設けて、それらを受け止められないかと考えていた。
お金を払わず、何もしなくても、そこに居て良い場所。
家に帰りたくないときだってある。
誰も知らない人たちの中で、時々1人になれる場所
そんなやりとりを、検討段階でしてた事を、この風景を見て思い出した。
中高生がカッコつける時くらい、地元は黙って2人きりにしてあげたい!
この後、2人はキバコに座って、ゆっくりたくさん話して帰りました。
ちょっとずつ、実現してる。伝わってる。

Facebookより引用
Facebookより引用

先日、山崎怜奈さんが出ていたアベプラで取り上げられていた
「排除アート」というテーマにも共通することなのかなあ、と。

様々な理由で、公共空間に「ただ居る」ということが難しくなっていて、
座る場所も、休む場所も十分にない、
一度家の外に出たら、ただ休憩したい、特に何もせずにのんびりしたい、というときですら、お金を払ってカフェに入ったりしないといけない。

こういった状況が生まれているのは、ホームレス対策だったりとか、街の景観維持とか、いろいろな側面があって、
行政としても、クレームが来たら対応せざるを得ない、「守り」に入らざるをえないのも確かにわかるのだけれど、
その結果として、高齢者や子供連れなど、意図せずに様々な方が同様に「排除」されているんですよね。

そうすると、「まちなか」に市民の居場所はなくなって、街の往来・歩行者はますます減っていき、
それと比例してモータリゼーションが進むので、中心市街地はさらに空洞化していく。


そんな流れに抗おうとすると、こういう「勇気ある取り組み」は絶対に欠かせなくて、
きっと渋滞対策とか、いろいろ苦心されながら今回の社会実験実施に至ったのだろうし、
ここまでどうにかこぎつけた行政の方々、関係各所の方々には本当に拍手しかないです。
波風立てたくないなら、ホントはこんな野心的なことやらなくたって、誰からも責められることはないと思うのですが、
本当にあるべきまちづくり、ということを考えると、こういう試みが、きっと未来の「住みたくなるまちづくり」「暮らしがいのあるまちづくり」につながっていくのだろうし、
こういう取り組みが、もっともっと広がっていってほしいなあ、と思います。

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