若者のまちづくりへの「参加」。どうデザインしていく?
これは、本当に耳が痛い…。
よくありますよね、学生がまちづくりのアイデアを考えて発表する、みたいなやつ。
高校生の「探究」の時間などはその典型ですが、
ありがたいことに、私もそういった活動に伴走したり、関わったりさせていただく機会がこれまでも何度かありまして。
そのときには、「努力の搾取」にならないように、と自分なりに常に気を配って取り組んできたつもりではあるのですが…。
いろいろな大人の思惑が混ざり合う中で、たかだか一人のオブザーバーという立場では、いかんともしがたいことも多く、
やるせなさと申し訳なさで、思わず唇を噛んでしまった瞬間は、一度や二度ではありません。
そのときのことを思い出すと、今でも少し胸が苦しくなります。
学生だってそんなにバカじゃないから、
周りにいる、関わってる大人の熱量や本気度って、ちゃんと伝わっちゃうんですよね。
やりながら、「どうせ調べるだけ調べて発表したらそれでおしまいでしょ」って勘付いてしまう。
そんなのに、本気出せますか?全力出せますか?
逆に、大人が高校生以上に本気になってのめり込む、
「どうにかしてこの高校生のアイデアを現実のものにしてやるぞ…!」と意気込んでいれば、
高校生の側も、「なんか今回はいつもと違うぞ…?」って、きっと思ってくれるはずで。
「若者のまちづくり参画」って、言葉にするのは簡単だけれど、
「形ばかりの参画」に終わらせず、本当に若者が関わる、関わりたいと思うまちづくりを実現するには、
その「参画の仕方」をどうデザインするか、というのがとても大事だし、
プログラムを作る側の力量が問われるのだと思います。
普段、高校生はどうしても「未熟な存在」として見られがちだけれど、
まちづくりという文脈において、高校生を「教育される存在」に押し込めてしまうのは、本当にもったいない。
ネットの活用とか、流行へのアンテナとか、
大人が束になってもかなわない、彼らこそまさに「最先端」を走っている分野だっていくらでもあるし、
そういう分野においては、私たち大人は、普段とは逆に、高校生から「学ぶ」「教えてもらう」立場になる。
普段、「先生」と「生徒」という、「教える」「教わる」が固定化されている環境で、その関係性をいきなりひっくり返すのはなかなか難しいのかもしれないけれど、
だからこそ、先生ではない第三者の存在が重要になってくるし、
そういった人が、うまく関わり合うことができれば、
「若者」が持つ力、ポテンシャルを十二分に引き出して、
クリエイティブな取り組みができるのだろうと思います。
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