見出し画像

読後感想『哲学と宗教全史』(出口治明、ダイアモンド社、2019)

 こんにちは。寄り道しています。
 認知言語学を研究のテーマとしているので、認知言語学の入門書(Evans 2019)をもう一度読んでみるかと思い立ち上げたnoteですが、早くも寄り道をしています。
 今回読んだのは、立命館アジア太平洋大学の学長を勤めていらっしゃる、出口治明先生の『哲学と宗教全史』(ダイアモンド社、2019)です。哲学に関しては全くの素人ですが、楽しく読めたので、その感想を皆さんと共有したいと思います。
それでは、お付き合いください。
 なお、私は哲学及び宗教に関しては全くの素人ですので、間違った意見や不正確な情報があればご指摘をお願い致します。

何で読んだの?

 不純な理由から言うと、procrastination、つまり読まないといけない本を読まずにぐずぐずして先延ばしにしているからです。
もう一つの理由は、書店で見かけた時に、「そういえば哲学ってあまり知らないな。大学の頃に出た授業で聞いたイデア論くらいしか印象に残っていない」と思ったので、「全史」と書いてあるならば読んでみようと買ってみたのがきっかけです。

何が書いてあるの?

 タイトルの通り、人類が行ってきた「考えること」の結果生まれた哲学と宗教の誕生と発展の歴史を辿っていく本です。洋の東西を問わず、様々な哲学者の考えと、宗教に関することが書かれてあります。

読後感想

 ということで、読後感想です。
 約400ページもあるボリューミーな本なので、個人的に気になった項目を数点ピックアップして、お話していきます。

イスラーム教について

 ロシア・ウクライナ間の問題が過激になる前は、よくニュースで「イスラーム原理主義によるテロ行為が……」などという話題が挙がっていました。
あってはならないことですが、その結果、イスラーム教について悪い印象を持たれた方も多いのではないでしょうか。

 この本を読めば、イスラーム教はその他の宗教と同じく、生きる拠り所を見つける、人と繋がる、などを目的として作られたものであって、そこに過激な思想は本来無いということが改めてわかります。
アッラーフと呼称される唯一神の預言者となったムハンマドは、商人であり、市長であり、軍人でした。イエスやブッダのような出家者とは違って、普通の人でした。と書かれてあります。

 頻発するテロに関しては、政情の不安定さからくる経済の低迷に加えて、若者人口の多いことを問題として考えるべきだということが述べられています。労働力のある若者が多くても、働く場所が無い。働けないので娯楽の機会が少なく、絶望してテロに走ってしまうという議論が本書では展開されています。

 このような現状を見ずに、テロとイスラーム教を安易に表裏一体の問題だと考えるのは、極端すぎると著者は考えています。
 私も、イスラーム教が様々なゲームや映画で悪役として設定されるのを多く見てきました。その結果、イスラーム教、ムスリム・ムスリマの方々に対する見方に無意識のうちにフィルターがかかっていたのかもしれません。
 この本を読んで、改めてハッとさせられました。

「知識は力なり」 フランシス・ベーコン

 中世イングランドのフランシス・ベーコン (1561-1626) という哲学者を、この本で初めて知りました。彼は、あのヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイと同時期に活躍した人です。

 ベーコンは、当時としては画期的な研究法である、「帰納法」を体系づけました。帰納法とは、最初に大前提を提示し、それをもとに個々の事例を観察していく「演繹法(えんえきほう)」と異なり、個々の事例を観察し、そこから得られた知見から一般的な原理や法則を導き出すという方法です。

 私の専門は認知言語学です。認知言語学の研究スタイルは、まさにこの帰納法なのです。認知言語学の根幹を成しているような概念は、16-17世紀の頃に出来上がっていたというのを知って、とても興奮しました。
 また、ベーコンは「イドラ (idola)」と呼ばれる、偏見や先入観に囚われるという人間の性質に気を付けることが大事だと述べ、4つのイドラを挙げています。

・種族のイドラ:人間が本来持っている偏見。見るものを自分の都合のいい方向に考えたがる性向。嫌なことは過小評価し、楽しいことは過大評価する。現代の学問では、脳の持つ特性の一つだと考えられている。
・洞窟のイドラ:個人の経験に左右されて、物の見方がゆがむケース。悲観的な原体験によって、物事を悲観的にしか見れなかったり、社会的な経験が少なくて自分中心の価値判断しかできない、など。
・市場のイドラ:伝聞によるイドラともいう。市場の人混みで効いたゴシップのせいで、事件の真相を誤って理解してしまうケース。センセーショナルな週刊誌やネット上の情報に踊らされてしまう感じ。
・劇場のイドラ:権威のイドラともいう。有名人の発言や、権威ある人の発言を何の疑いもなく信じてしまうこと。

 どうでしょうか。中世の哲学者の考えですが、現代の物の見方にも当てはまるのではないでしょうか。この本で述べられているのですが、神という概念が生まれた約1万2,000年前のドメスティケーションの時代、つまり、狩猟採集生活から定住農耕・牧畜社会へと転換した時代から、人間の脳は進化していないそうです。したがって、「昔の人の考えでしょ」と軽視せず、一度でいいので哲学に触れてほしいと思います。きっと、現代にも通じる考えや価値観があって、自分の助けになってくれると思います。

 余談ですが、これに感動して、ベーコンの著書『ノブム・オルガヌムー新機関』(桂寿一訳、岩波文庫、1978)を読みたいと思ったのですが、残念ながら絶版、中古価格が高騰という事態になっています。岩波書店さん、どうか復刊を……

ニーチェの思想と仏教の教え

何かと人気のニーチェですが、「永劫回帰」という考えを示しています。これは、「歴史は理想的な方向へと進んでいくんだよ」というヘーゲルやマルクスの考えとは異なり、「いや、人間てのはそんなに賢くない。同じ過ちをぐるぐる繰り返して進歩なんてしないのさ」という考え方です。ここに、仏教の教えである輪廻転生の思想と同じものを感じます。

 また、ニーチェは、時間も歴史も進歩しない中、そんな運命を頑張って正面から受け止めて進んでいく「超人」が必要なんだ、と考えました。「神は死んだ」と考えるニーチェからしたら、頼るべきは自分自身、神もいないし進歩もない世界の運命を受け入れて頑張る人間が超人であり、その力への意志によって世の中は動くんだ、と考えました。

 この考えは、はるか古代、紀元前3世紀ごろのギリシア哲学のストア派の考えと似ている、と出口先生は指摘します。ストア派は、「揺れ動く感情(パトス)を、理性(ロゴス)で制御して心の平安(アパティア)を得るんだ!」という考えを持っていました。つまり、運命を冷静に受け入れて、徳を追求して生きていこうという考え方です。

 紀元前のギリシア哲学と19世紀の哲学者が、遥かな時を超えて似たような考えを示しているところを見ると、やはりニーチェの言う通り、人間の考えることは繰り返しているのだなと思いますね。

言語学の祖、ソシュール

 最後は、ソシュールの話で終わろうと思います。
 言語学の話題から逃げるように哲学の本を読んでいたら、言語学の祖、近代言語学の父であるフェルディナン・ド・ソシュール (1857-1913) に遭遇しました。逃げようとしたけど、「回り込まれてしまった!」のような状態です。やはりこの世界が私に言語学をやれと言っているんでしょう。

 ソシュールより以前の言語学といえば、比較言語学や歴史言語学が主流でした。今ある言語を比較して、共通の祖先を推測してみよう、というものです。言語の歴史的な側面を重視していたわけです。それに対してソシュールは、今の観点、現代の観点からも言語の観察をしようよ、という立場をとったわけです。

 ソシュールの言語研究の成果で一番有名なのは、「シニフィアン」と「シニフィエ」だと思います。わかりやすくいうと、シニフィアンはあるモノを呼ぶ、指す時の「音」とか「文字」で、シニフィエはその音とか文字で表されるモノの概念です。例を挙げると、「猫」という言葉は「猫」という文字と「ねこ」という音を持っています。これがシニフィアンです。そして、「猫」や「ねこ」が「にゃーんと鳴く驚くべきほど可愛い動物」という概念を呼び起こすのです。この概念がシニフィエです。ややこしいですよね。ともかく、ソシュールは、言語はシニフィアンとシニフィエによって構成されていると考えたのです。

 このシニフィアン・シニフィエの関係は、全ての言語で同じというわけではなく、文化によって様々なんです。日本語では、「飛行能力を持っていて、羽に触れると謎の粉が手についちゃう虫」のことを「蝶」と「蛾」の二つのシニフィアンを使って表現しています。一方フランス語では、どちらも"papillon"で表しています。

 このことから、ソシュールは次のように考えました。世界にモノが個別に存在していて、一つ一つに人間が名前を付けていっているわけではない。目の前に広がるモノを自分なりに整理して、そこに記号を付けて認識しているのです。「ここからここまでは蝶と呼んで、ここからここまでは蛾と呼ぼう」という文化もあれば、「ここからここまでぜーんぶpapillonにしよう」という文化もあるのです。つまり、ありのままの自然を分断することが文化の本質だ、とソシュールは考えました。

 ここからは本には書いていることではなく、修士時代にお世話になった先生の言葉ですが、関連していることなので紹介します。
 この自然世界の切り取り方というのは、文化によって様々で、それが言語に反映されるのです。でも、その文化というのは優劣のないものなのです。だから、「日本語には一人称の単語がめちゃくちゃ多いからすごい!」とか、「英語は1人称が単数と複数の二つしかないからしょぼいよね」というような考えは絶対にダメなんです。言語に優劣無し、その背後にある文化や人に優劣無し、です。

おわりに

 以上、出口治明先生の『哲学と宗教全史』(ダイアモンド社、2019)の読後感想でした。
 この本を読んで、さらに哲学に興味を持って、早速哲学の概説書を何冊か買ってしまいました。また、世界史の本も一冊買っちゃいました。ああ、認知言語学から遠ざかっていく私を許してください。歴史や哲学のスイングバイでまた認知言語学に必ず戻ってきます。
 それではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?