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メーデイアの眠り (3)

 おねえちゃんは、魔女だ。自分でそう言ってるので間違いない。私はおねえちゃんが大好きだ。おねえちゃんの家には変わったものがたくさんあって、宝箱をちりばめたようでわくわくする。お母さんは、私がおねえちゃんの家に行くことをあまりよく思ってなくて、私はいつも学校帰りにこっそりおねえちゃんの家に寄り道をする。これは二人だけの秘密なのだ。だから、私はいつも一つ下の弟に見つからないようにさっさと下校した。あの子は寂しがり屋で意地っ張りだから、すぐお母さんに言いつけるにきまってる。

 お母さんは、おねえちゃんのお姉ちゃんだ。だから世間では、おねえちゃんは私のおばさんだ。でもおばさんだなんて呼ぶと、あまりにもおねえちゃんがかわいそうなので、私はいつしかおねえちゃんと呼ぶようになった。おねえちゃんにはれっきとした霧子という名前があったけれど、それを口にすると魔法が解けてしまいそうなので、私はおねえちゃんと呼んでいる。おねえちゃんの名前はとても幻想的で、美しいと思うけれど、口にするにはちょっと躊躇する。霧の深い夜に生まれたそうだ。そんな夜を選んで生まれてくるなんて、やっぱりおねえちゃんらしいなあと思った。一方お母さんの名前は栄子、というなんだか冴えない名前だった。私の名前も明奈で面白みがない。名前なんてというけれど、一生付きまとうものだし、私はもっと面白みのある珍しい名前や、漢字にこだわりのある厳かな名前がよかったと思う。いつか私に子供がうまれたら、きっとすごく時間をかけてすごくいい名前を付けると思う。

 おねえちゃんの住んでいるところはコーポつばめという、とても古くて、かわいらしい家だ。私が古い物ばかりを好んで良いというので、家族のみんなは私のことを小さな年寄り、と愛情を込めて呼ぶ。裸電球のぶら下がったホール、すりガラスのはめられた木のドア、かわいらしい丸っこいドアノブ、錆びついた真っ赤な郵便受け、いぐさのいい匂い、そして日に焼けた板の張られたサンルーム。そんな物が揃っているおねえちゃんの家は、心地の良い場所だった。外国の映画に出てくるような、不思議なものが所狭しと並んでいる。いつもお香から立ち込める煙が、光の中でゆらゆらと揺れている。それは神聖な香りで、煙を通してみるその世界は別の次元の世界のようだった。

 お母さんはよく言った。霧子おばちゃんは病気だから、ちょっとおかしいのよ。だからあなたもあまり関わらない方がいいのよ、わかって、と。だけど、おねえちゃんはいつも普通だったし、お母さんみたいにヒステリックにわめき散らすことなんてなかった。おねえちゃんは神経質だったけれど、たいていは穏やかで、優しかった。そして私を子ども扱いしなかった。おねえちゃんはお母さんよりもうんと若くて、美しかった。だからきっとお母さんは、やきもちをやいているんだと思った。

 おねえちゃんの家に着くと、まず初めに手を洗ってうがいをした。それは言われなくても暗黙の了解のうちに決まっている儀式のようなもので、私はお邪魔しますを言う前に、洗面所に駆け込んで、キラキラのガラス瓶に入れられた緑の液体石鹼で入念に手を洗い、おねえちゃんがシンガポールの泥棒市で買ってきたという、ピューターのカップに水を注ぎ五回うがいをした。おねえちゃんは思いのほか病弱なのだ。手拭いで手を乾かすと、鏡を見て顔が汚れていないか確認した。私はおねえちゃんに会う時、必ず少しだけ緊張した。そういう緊張感を持ってこそ、おねえちゃんにふさわしい自分になれると幼いながら思っていた。そして居間に続く扉をそっと開けるのだ。おねえちゃんは大抵机に向って何かをしていた。私が来ると、いつもそれを中断させ、台所に行き私の為におやつを用意してくれるのだ。お母さんは、私が何かを中断させると、火が付いたように怒った。ひどいときは、そこら辺の物が手あたり次第飛んできた。私は本当にお母さんとおねえちゃんは血が繋がっているのだろうかと、時々不思議に思ったものだ。

 今日のおやつは、コーヒー味のクリームののったシフォンケーキと、ほうじ茶だった。こんな時にアールグレイティーとかを淹れずに、ほうじ茶で気を抜くおねえちゃんが好きだった。居間には、古い木のちゃぶ台があって、私は、レトロなテキスタイルでおねえちゃんが手作りした座布団に座り、行儀よくおやつをいただく。それをおねえちゃんが眺めながら、学校であったことを聞いてくる。そうしているうちに、私はおやつを食べ終えて、おねえちゃんが食器を台所へもっていく。その隙に私はいつものように、秘密の品をランドセルの底から取り出した。私とおねえちゃんはある秘密の共有者であった。

 今日の戦利品は、レシート数枚と空になったアフターシェーブローションのボトルだった。これらは、すべて私がこっそりごみ箱から救い出した、おねえちゃんの宝物になる品々だった。元の持ち主は、私のお父さんだった。なんでこういう事をしているのかというと、とある魔法を試すためだった。私達には、似通った欲望があって、それを叶えさせる為にお互いの力が必要だったのだ。おねえちゃんは、お父さんのことが好きで好きで、悲しかった。私はお母さんみたいなお母さんほしくないと思っていた。おねえちゃんがお母さんだったらいいのに、とよく冗談で言った。だから、私たちは秘密の共有者であって、共犯者なのだ。私たちは、お父さんを二人占めするために魔法をかけた。でもその魔法には生贄とか、手に入れにくいものも必要で、ゆっくりと、気長にかけていくのだった。これは、他の人に言ったらいけない本物の魔法で、それを破るとひどいことが起きるのだ。どんなひどいことが起きるのか、見当もつかなかったけれど、きっと火で焼き殺されたりするんだと思った。ジャンヌ・ダルクみたいに。殺されたところで私は聖人にはなれない、ただの裏切り者になるだけだ。おねえちゃんは裏切るだろうか?そんなことはないと思った。おねえちゃんは一度口にしたことは諦めずに、しぶとくやり通す、とお母さんがいつか言っていた。本当に執念深いのよ、あの子は、と。

 おねえちゃんは私があげた戦利品のレシートを確認して、ノートに張り付けた。そして、空になったアフターシェーブローションの蓋を開けると、中に残るかすかな液体の香りを確かめた。あの人のにおいがするわ、とおねえちゃんが囁いた。そういうときのおねえちゃんは大抵幸せそうだった。その空のボトルを居間の隣にあるおねえちゃんの寝室の棚に並べた。寝室のその奥には板張りの小さなサンルームがあって、そこが私のお気に入りの場所だった。暖かい日差しが決まってそこに差し込み、少し埃っぽい空気と、お香のにおいが染みついたカーテンが光と柔らかい風に揺れ、まるで外国の映画の中にいる気分になった。小さなソファーと、ぎっしり本の詰まった本棚。私はそこに寝そべって宿題をした。おねえちゃんは嫌味を言わず、私に宿題をさせる術を知っていた。私もそんなおねえちゃんには抗わなかった。

 宿題が終わると、儀式を始めた。おねえちゃんの寝室には、押入れがあって、その押入れの上の段が祭壇で、下の段がおねえちゃんの寝床だった。祭壇には、おねえちゃんが世界中をまわって集めた小物や、不思議な雑貨が所狭しと並べられ、その中心にある骸骨の像に私たちは祈りをささげた。骸骨の名前は、サンタ・ムエルテというのだとおねえちゃんがやさしく教えてくれた。メキシコ人の友人から譲り受けたというその肉付きのない骸骨の聖人は、怖いけれど説得力があった。サンタ・ムエルテは聖母マリアと対照的な存在で、女の人らしい。たいていの人間は死を恐れているけれど、サンタ・ムエルテ信仰では死と友達になってしまえばそれを恐れずに済むというロジックらしい。不法移民の集まるアメリカでメキシコ人を中心にじわじわと広まっているそうだ。常にびくびくと過ごしている人間達にとって、サンタ・ムエルテはゆりかごのように安心できる存在なのだろう。私もお母さんという、いつ爆発するか見当もつかない時限爆弾を隣に置いて過ごす、という意味では、常にびくびくとしていた。サンタ・ムエルテはどんな願いでも叶えてくれる、そうおねえちゃんは夢見るように話してくれた。

 おねえちゃんは、病弱ではあったけれど、その病弱さ故に大人になってからはどうせ死ぬならという勢いで、世界各国をよく旅してまわった。危険といわれている地域にでも、死ぬ勢いで乗り込んだ。そしてそれを漫画やエッセイなんかにして本を作っていた、ある程度世間では名の知られた人間らしい。おねえちゃんは名声をサンタ・ムエルテによって、手に入れたのだろうか?

 私たちは、サンタ・ムエルテに火のついたタバコをくわえさせ、お供えに果物と、テキーラを注いだグラスを置いた。タバコの青白い煙が辺り一面に漂い、静寂の中に、奇妙な音楽が流れた。二人でサンタ・ムエルテの前に跪き、イメージを頭の中でしっかり展開させて祈りをささげるのだ。こうなるはずだ、と。

「明奈ちゃん、あなたは栄子姉さんに似てなくて、私にそっくり。きっとあの人と私が子供を作ったら、あなたが生まれたはずだわ。私は子供を産めない体だから、きっと神様が栄子姉さんにあなたを生ませたんだわ」

 おねえちゃんは、そう言って私を実の子のようにかわいがってくれた。お母さんの血はおねえちゃんの血でもあり、私にはその血の中に、おねえちゃんの愛する人の血が流れていた。だから、特別な存在なんだとおねえちゃんは言ってくれた。私はその特別な存在であることに喜びを得て、おねえちゃんをがっかりさせたくない一心で、彼女を幸せにしようと必死だった。

「ねえ、明奈ちゃん、本当はね、私が先にあの人を見つけたのよ。でも私は幼くて、栄子姉さんがあの人をとっちゃったの。酷いわよね、でもいいのあなたに出会えたから」

「おねえちゃんが、私の本当のお母さんだったらよかったのに」

「そんなこと言わないで、私は明奈ちゃんの本当のお母さんなんだから」

 儀式の終わりに、私達は待ち針で指の先を突いて血を出した。その指先から流れる血をお互いの血と混ぜ合わせるのだ。そして最後にお互いの指先を吸いあい、儀式を終えた。

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