からだの中心から奏でられた音楽
Petit un jour vol.10という演奏会に行ってきた。
いつも身体のレッスンをしてくださるTAKAHIROさんが、ピアノの演奏をされるということで、いそいそと出かけていった。
演奏会は、ピアノの連弾からはじまった。
連弾って、こんなにおもしろいものなんだと、わくわくした気持ちで聴いていた。
一緒に演奏していても、ひとりひとりが奏でる音がそれぞれまったくちがって聴こえる。
連弾というものを聴き慣れていないわたしにとっては、とても新鮮な体験だった。
わたしにとって、さらに衝撃的なことは続く。
……あ、平日の午後にピアノの演奏を聴きに行ったっていう、のんびりした話なんですけれどね、こんなふうに書くと、なんだかドラマチックですね!
うふふ!
……うふふ、じゃない!
はなしを戻そう。
そのあと、TAKAHIROさんのピアノの先生であり、演奏会の主催者でもあるN先生の演奏。
この先生の演奏に、わたしは心底聴き入ってしまった。
Nさんの身体の中心から音が湧き上がっていて、
音が湧き上がっているから
その結果としてピアノが奏でられている、のだ!
ピアノを弾いているから
音楽が聴こえるんじゃない。
身体の中心から
音が湧き上がっているから
音楽が奏でられるのだ。
そして、
演奏している自分を、
奏でられている音を、
もっと言ったら、
音のひとつひとつを、
うーん…なんというのかな、
どこまでも平たい眼差しで
見つめながら演奏している、
という感じがした。
なんということだろう…と思った。
わたしは
これまで生きてきた中で
自分の身体の中心から
ことばを発したことがあっただろうか?
(いや、ない)
と、思った。
つい1か月前、ポエトリー・リーディングをしたが、
わたしは
自分の身体の中心から
詩を、ことばを、溢れさせていただろうか?
(いや、溢れさせていない)
あぁ、身体の中心からことばを発してみたいなぁ。
身体の中心から発せられたことばは、
どんな響きを持つものなのだろう。
身体とつながったことば
それは、どんなエネルギーを放っているのだろう?
そして、N先生の演奏が
わたしに教えてくれたことがもうひとつあった。
表現とはなにか?を
はっきりと教えていただいた、気がした。
表現って、なんだろう?
って、最近ぼんやり考えていた。
なんのためにするんだろう?って。
だって、別に、詩人になりたいわけでもない。
詩がすごく好き、というほど親しんできたわけでもない。
役者になりたいわけでもない。
なんのためにやるの?って言われても、
やりたいからやる、とか
なんかよくわかんないけど、とかって、
そんなふうにしか答えられない、
そう思っていた。
でも、N先生の演奏を聴いていて、
はっきりとわかってしまった。
わたしにとって、
表現とは、
世界をとらえなおす行為。
わたしをとらえなおす行為。
わたしの
悲しみを
怒りを
喜びを
楽しさを
闇を
輝きを
わたしの中でとらえなおして
平たい眼差しで見つめて
ふたたび世界に循環させる行為
循環させてはじめて
ほんとうの意味でわかったり
ほんとうの意味で腑に落ちたり
するような気がする。
身体化してはじめて
昇華される
わたしの魂の経験
それが、わたしにとっての“表現”だと思った。
わたしにとって“表現“とは
世界をとらえなおすものであり、
わたしをとらえなおすものであり、
表現そのものが
霊的成長につながっています。
“表現”することで
わたしは
わたしという存在を
はじめて世界に資することができます。
サポート頂けると、とってもうれしいです💖 誰かに言葉を贈ること、誰かを言葉で祝福することが、わたしにとって、とても楽しく喜びを感じる瞬間です。頂いたサポートは、ぐるぐると循環させて、生きたエネルギーとして、また別の誰かに、何かに、お返ししたいと思っています。