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手紙の在る生活について考えてみる②本編

手紙を書くことが好きだ。もらうことも好きだ。バンドのお客さんからもらった手紙は嬉しくて実家のコルクボードに飾ってある。

書いて楽しい理由、もらって嬉しい理由はなんだろうと、取り留めなく考え記してみる。

言葉にする行為は、意外と労力が要る。

手紙に魅力を感じるその理由はなんだろう。
会っていない間に相手のことを考え「言葉にする」、その時間に価値があるからなのかもしれない。

それはメールでも、チャットアプリでの連絡でも同じでは?という話にもなるが、直筆はまた違った趣があると思う。
というのと、
もはや現代人の常識となりつつあるチャットアプリ、たいそうな話題でも無い限り、そこまで労力は使わない。文の書き換えも、消しゴムを使って行うよりは随分楽だものね。

労力を伴うから良いというわけではないけれど、「言葉にする」行為らしさを含むのは、手紙のほうかなと思うわけだ。画面に打ち込むより、ちょっとだけハードルがあるから言葉選びも慎重にもなったりするし。

言えない気持ちをしたためて、会えない時間で封をする

前編に引き続いて文通キャラになってしまいそうだが、かつて、あまり会えない知人と文通をしていたことがある。

使い慣れない時候の挨拶だとかを付け焼刃的に蓄え、自分なりの文章を記して、送った。現代に生きながら何をやっているんだと思われるかもしれないけれど、それなりに楽しく続いた。書き終わった後は気恥ずかしさからいそいそと糊付けをし、切手を貼り、緊張しながらポストに投函した。

ふだんはわざわざ言えない気持ちや事柄をしたためた手紙を封筒に入れる。
会えない時間の重みで、その封がぴたりと閉じられるイメージだった。

我ながらなんとも抽象的なことを書き連ねているけれど、筆を取り、封をするまでに思いやりがある気がするのだ。これも手紙の価値かもしれない。

そういえばこの文通をしている時期、なんだか平安の世のようだ〜と思い、古歌を調べたり、枕草子を読んでみたりした。これについてはまた後ほど。

言葉のコミュニケーションの喜びは計り知れない

と、思っている。前述の「言葉にする行為」と関連して。

同じ意味の言葉を代替品として、書き換えが可能な文章はたくさんある。

たとえば掲題の「手紙の在る生活について考えてみる」だが、「わたしの生活と手紙」「生活と、手紙の持つ意味」とか書き換えは可能だけれど、ニュアンスがまったく違う。
それは言葉の持つ「意味」自体ではなく、その言葉が持つ独特の空気感があって、言葉と言葉同士がくっついたときにだけ生まれる色があるからだと思う。わたしはあれが好き。
あれが、計り知れないほどの”言葉のコミュニケーションの喜び”を生み出す根源だと思っている。悲しみも然り、だが…。
だからI love youの意訳が「月が綺麗ですね」や「死んでもいいわ」になるわけである。

それを便箋に香水を振りかけるような感覚で使うから、手紙は楽しいのです。

歌と手紙の平安時代

最後に、少し出した平安要素を回収がてらお気に入りの歌を紹介して、今日のひとりごとは終わりにします。

心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる

古今和歌六帖

枕草子にも出てくる古歌!
表面から見えない地下水が湧き返るように、口に出さないけれどあなたのことを思っています。
というなんとも慎ましく熱い歌なわけですが、これだなあと思う。
思いの深さが伝わるのって、言葉の持つ「意味」自体ではないのです、やっぱり。

ここまで書いて思ったけど、「手紙を書く」行為ひとつにここまでいろいろ連関させて考えるのはキモいんじゃないか?と謎の自己嫌悪になっちゃいました。
でもやっぱり考えるのって楽しいのよね。こんなことしているうちにおばあちゃんになっちゃいそうだ…

おやすみなさい。

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