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シングルで里親になる(人間の)㉑  改めましての自己紹介-1

40代未婚、バツ無し、子どもなし、のシングル女性が人の里親になる奮闘記

改めましての自己紹介-1

最初の自己紹介はこちらですが

前回里親申請の面接の際に話した経歴も含め
ここで、一人で里親になろうと思う変わり者が(笑)
どのように作られたのか(あまり興味ない人はスルーしてください)
里親になるにあたって良かった経験などを
つらつらと書いていこうかと思います。

生い立ちの前に人となり

長所を聞かれたら 明るく、元気
短所は 楽観的過ぎる
自己肯定感はめちゃめちゃ高いです
むしろ自己肯定感しかないです(笑)
と書くとどんだけすごい人物で苦労知らずなのかと想像されるかもですが
全く違います!!
おそらく人よりかなりな苦労も失敗もしてきていますが、
幸せな人生を送っているなぁと思っています。
特に小さい頃は当時は気づかなかったけど
かなり幸せだったと思います。

幼少期

生まれは横浜
と言っていますが、実は生まれた頃に両親が住んでいたのは
父の転勤先だった静岡県沼津市です。
横浜に母方の祖父母の家と同じ敷地に一軒家があり
母が出産の時には帰省して横浜の病院で生まれたので
出身は横浜なんです。(横浜の人って大体出身は神奈川県ではなく横浜って言いますよね)

2歳まで沼津で過ごし、その後横浜へ。
母32歳の最初の子、当時にしては第一子としては遅い子で
母が亡くなってからかなり大変な不妊治療をしていたらしいと知りました。
それゆえ、待望の第一子、母方祖父母との二世帯住宅
それはそれは可愛がられました(笑)

子どもとの愛着形成で大切な2歳までは沼津も
当時転勤先社宅の隣に住んでいた母と同年代の子どものいないご夫婦が
とてもとても可愛がってくれていたそうです。
自分の記憶はもちろんほとんどないですが
当時の写真やそのご夫婦からの話でうかがい知ることが出来ました。

4歳の時に妹が誕生。そこまで「お姉ちゃんなんだから」と言われた記憶はないんですが
一応 長女 です。

5,6歳の頃だったでしょうか、当時車酔いの激しい私は車で父の実家(名古屋)に行く時に一人置いていかれました。といっても祖父母がいたのでそこにです。
どんな気持ちだったのかは覚えていませんが
家の外の階段で一人座っていたらおばあちゃんが横に座ってくれました。
そして、両親と妹が帰宅した時におばあちゃんが
「一人で寂しそうに泣いていて可哀そうだったの。こっちが泣けてきたわ」と両親に言っていました。
そんな泣いた記憶もないけど
泣いちゃいけない、と強く思ったことを
今でも覚えています。

たぶんそこから泣かない子でした。
かなりな我慢強さも その頃からのような気がします。

もちろん転んだり(とてもどんくさい子だったのでよく転んだ)
ものすごく嫌だったり悲しかったり悔しかったりしたら泣いたけど
いわゆるすぐ泣いちゃう女の子ではなかったと思います。

なので、男の子にちょっとからかわれたとか
何かの拍子に注目されて恥ずかしくて泣いてしまう女の子に
ちょっとびっくりでした。むしろ羨ましい感じ。

そもそもほとんど怒ることのない両親だったので
家で泣くことはほとんどなく、姉妹でそこまで激しい喧嘩もなく
両親の夫婦喧嘩もみたことない平和な家庭でした。

そんなに目立つ子ではなかったけど
幼稚園の学芸会で主役に選ばれたり
3歳からやっていたピアノの発表会に出たり
目立つことは嫌いではありませんでした。

可愛い可愛いと言われ、大切に育てられた幼少期
私の自己肯定感はこの時期に育まれたんだと思います。
「やりなさい」と言われたこともほとんどなく
(やってもらっていたことも多かったかもですが)
ぼんやり過ごしながらも
それなりに普通に小学校に入学しました。

小学校時代

この時代が人生で一番頭が良かったと思います(笑)
運動神経がなく💦体育だけが普通でしたが
それ以外6年間ほぼすべて たいへんよくできました(三段階評価の一番上)という好成績★ほぼほぼテストは100点か80点以上
といってもガリ勉でもなく友達とも仲良く過ごし
いじめられることもいじめることもなく
これまた平和に過ごしていました。

ただ時代的に暴走族とか全盛の時代
『湘南爆走族』(1982-87年連載)、『ビー・バップ・ハイスクール』(1983-2003年連載)が流行り始めた頃です。
クラスの半分以上が行く中学とは少し離れた場所に住んでいて
数人しか一緒にならない地元の公立中学校はかなり荒れている学校でした。
そこで、中学受験を目指しました。

今こそ中学受験する人が多いですが、当時はあまり少ない中学受験。
それでも近所に二人受験する子がいてその子たちと一緒に
6年生の1年間、日能研に通いました。

そこで初めての荒波体験。小学校のクラスでは1番2番でも
中学受験を目指す塾では賢い子がたくさん集まっていて
全然上のクラスに入れない!しかも席は成績順。
自分の順位が数字として出てくるんです。

あれ?私そんなに頭良くないのかも

でも、まぁ腐ることなく頑張りました。
少しでも上の順位になれば嬉しいし
塾でできた新しい友達も新鮮で楽しかったので
嫌がることなく通ってました。
基本、勉強するのが嫌いではなかったんですよね。

それなりに勉強して希望の中学に入学できました。
週5日夜まで塾で、直前の冬休みはほぼなく
当時テレビでも話題の鉢巻きして「がんばろー!」なんてのも
やっていました。
でも、特にやらされている感もなく結構楽しんでいました。

家族旅行も行ったりしてましたし
両親は教育ママやパパでもなかったので
特に家庭でも息苦しいということもなく
至って平和な幼少、小学校時代でした。

当時良かったなと思うのは
もちろん今から思えば家庭環境も良かったのもありますが
本をよく読んでいました。
特に伝記ものが好きでした。
伝記というのは、偉人のヒストリー
小学生用にわかりやすく書いてありましたが
伝記になるような偉人というのは
変わった人とか大変な人生の人が多いんですよね。

エジソンは変わった人で学校になじめなかったし
野口英世は「いつ眠るのか」と言われるくらい熱心に研究してたし
夏目漱石は小さな頃に里子に出され転々と家庭が変わり学校も中退したり何度も病気になったり

それでも立派な人物になっている

変わってても、苦労しても、大丈夫

そんなことを学んだような気がします。

特にエジソンの言葉が人生の指針になったとか
そんな素敵な話はないんですが💦

小さな頃に色んな人(むしろ変わった人)の人生のストーリーを知ったのは
良い経験だったと思います。

中高時代

ここで初めての挫折です。
晴れて入学した第1志望だった私立中学は中高一貫の女子校。
偏差値ギリギリでランクを落とすことなく受けたら受かったんです。
ということで自分のレベルより高い学校だったのもあるし
独自のカリキュラムで小学校よりぐっとレベルの高い授業
テストで全然点数が取れない!!
ビックリする点数のテストに自分がビックリ(笑)

それなりに中二病で「なんで勉強しないといけないのか?」などと
自問自答から友達に手紙を出してみたり、不良っぽいものに憧れたり
ちょっとした反抗期などもありました。

が、さしてグレルこともなく6年間過ごしておりました。

帰り道に禁止されてる繁華街での買い食いとか
ライブハウスに行ったり、原宿に買い物行ったり、など
可愛らしいちょっと悪いことなどするぐらい。

女子ならではのグループとか色々ありましたが
比較的目立つ子のそばにいる たいして目立たない子
というポジションが多く
ここでは目立つことなく、でもいじめられるわけでもなく
それなりに楽しく過ごしていたような記憶です。

当時まぁまぁ優秀な学校だったので
名のある大学に行って、それなりの会社に入って
そこの会社の人と結婚して
というひと昔前の良妻賢母ルートの女子の多い学校でしたが

私が今でも長く続いている友達は
いわゆるキラキラ女子系よりも
芯のある独自路線で活躍する女性たちが多いです。

中高時代はバンドブームで音楽も好きだったし
ダウンタウンやウッチャンナンチャンなどが出てきたお笑いも好きで
バンドのライブや、お笑いライブなどにも友達と行きました。

友達と出かける一方、ラジオが好きでFM、AM問わず色々聞いていました。深夜ラジオも寝不足になりながら聞いていて
オールナイトニッポンはマニアックかもですが、
サンプラザ中野さん、ウッチャンナンチャン、うじきつよしさん、
辻仁成さんなどを聴いていました。

パーソナルに語り掛ける 
自分に語り掛けてもらっているような気持になるラジオ

深夜に 爆笑したり 涙したり 
この経験はのちの人生に大きく関わるのですが
それはまたいつか。

と、ここまでで大分長くなってしまったので
(本当は1回で終わるつもりでしたが、、、)
また機会をみて何回か後に続きを書きたいと思います。




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