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6月16日 炭水化物摂取量を考えながら、池田晶子さんや埴谷雄高さんのことも考えること。

今朝の体重64.8kg、体脂肪11.2%。最近は10%を切りにくくなったが、1か月ほどの朝昼晩の玄米で体幹部の体脂肪が増えたためのようだ。

炭水化物をある程度摂る必要がある、と思ってはいるが、今は朝晩はバナナや納豆程度である。geminiで聞いてみると、私の1日の推定炭水化物量は80G程度であった。比較的体脂肪は低いので、炭水化物の消費(エネルギー消費率)が高めで、脂肪になりにくいということであった。

ちょっと仕組みをよく理解できていないが、まあ、とりあえずこの感じで様子を見ようかと思っている。

最近気に入っている食材はきな粉。安いし、繊維質を摂れるしで、卵と納豆にどばどばかけて混ぜると納豆餅的な食べ物になる。まあ、だれにもお勧めできない食べ物(というか単なる餌??)であるが。。。

満腹感を得るにはやはりキャベツがいいようだ。今は高いのだがなんとか安値で見つけたら都度購入しようと思っている。

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池田晶子さんが自ら絶版にされた処女作である「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」を引き続き読んでいく(といってもまだ冒頭だが)。

「死霊」7章から引かれている。

「その黙狂の患者にとつては、すべてのひともものも、頭から足の先まで、恐ろしいほど果てしもなく透き通つていて、この宇宙の全存在の過去と未来のすべてが一点の隈もなく透き通つて見通せると思われていました」

脇道にそれるが、勿論慣れもあるのだろうが、文章に小文字が無い時代の文章は読みにくい。現在であれば小文字にすべき文字を大文字で表記していた時は、どの文字が大文字でどの文字が小文字かということを単純に文章の流れで判断していたのだろうか。

調べてみると、小文字の導入は1946年の学制改革を契機とするようだ。歴史的仮名遣いの変化もその時のようだ。したがって1946年の時点でとうに成人していた世代は、新仮名遣いに苦労したことだろう。

埴谷の文は旧仮名遣いではない気がするが、小文字だけ使用していないのはなぜだろうか。たぶん独自の判断による小文字抜きの表記なのだろう。あと句読点の多用も特徴のようである。
現代仮名遣いしか読んでいない場合、こうした特徴から文章をじっくり読むことになるかもしれない。読みたい人には。こういう仕組みで自身の読者を本当に読みたい人だけに読んでもらいたい、という選別を行っていたのかもしれない。

さて引用の文。これはつまりは「時間がなく」「すべての存在は移ろうものの、時間がないのであればすべてはつながっており、境界も質量も距離も容量もあるようにみえて実はないのだ」ということではないのかな、と思うところだ(独自の解釈です(笑))。

私はいつも存在の発生の前は思考しかない、という考えが正しいなあ、と思うところがある。グノーシスで言えば「流出」。なにもない、存在もないところに、思考から「存在」が「流れ出た」のが、真の宇宙の誕生であろう、と思うのだ。

なぜなら「宇宙」が膨張しても、膨張する先が既に「空間」としてあるのであれば、それがそもそもの「宇宙」であるはずだからだ。なので、存在が存在しない「無」にいきなり「存在」が生まれることしか、存在が存在できないはずだからだ(ああ、ややこしい)。で、「無」は現在の知見ではうまく固定できない概念だろうとも思うのだ。

「空間」を真空、と置き換えてみても、真空が「存在」するという風に考えることもできるだろう。
まさにもうこの時点でどう考えてもわからないことに気づく。
哲学とはそもそも「わからないことに下線を引く行為」(だったかな)である、というどなたかのご意見(内田樹さんの文章でみたような)が、その通りだなあと思う瞬間である。

(今日はこのあたりで。。わからないことを答えがでないだろうと推察しながら大事に抱えて生きることは、そもそもの哲学=知を愛すること とやはり通じているような気がします)



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