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8月8日 われは墜ちぬ。星と時のあいだに架けたる一つの長き橋より・・・。(埴谷雄高「深淵」)

本日の体重65.4kg、体脂肪11.8%。昨晩は65.3kg、10.8%であった。

一昨日は67kgを超えていたので、すこしは絞れたようだ。思いっきり食事を抜いているわけではなく、プロテインも卵も納豆も食べている(笑)ので、いい傾向だ。

尿酸値が高いので、水をなるべく飲んでおり、コーヒーを控えめにしている。コーヒーをがぶ飲みするといいと思っていたが、暑くなって大汗をかくとどうやら脱水症状になる気がするからだ(飲んだ量より出ていくことはないと聞いていたが、そうではないのかな??)。

昨年夏は熱中症らしき症状が出た。今は鞄に岩塩を入れており、最悪水道水と岩塩で対応しようと思っている。

まあ、準備しておくと、安心できる。

昨日はビックカメラに時計の電池交換のために行ったのだが(6F系のパーペチュアルカレンダームーブは、電池交換時の設定が面倒なようで自分で変えるのはちょっと難しいようなので)、店舗の営業時間は10時までなるも時計修理受付は8時までであった。行ったのは9時前だったので、依頼できず。。(´;ω;`)

だがまあ、そのおかげで東京駅の夜景と、13000歩の歩数を稼げた。結果多分1kg位は体重も落ちてくれたように思う。

また昨日はスポーツセンターに行くことができた。最近は出張が多く、週2回は行けていないのだが、今週も1回になりそうなので3時間みっちりとやった。

最近は1時間半位なので、2回分とは言えないが、最近やっていない動きを取り入れてみたので、刺激があった気がする。

帰ってから胸肉と鯖を食べたので、タンパク質も悪くないだろう。

今週はアマゾンプライムでTHE BOYS のシーズン4を見ている。なんというか、アメリカのリアルが体感できる感じで、悪趣味ではあるが結構好きなのだ。

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高橋巖先生が3月30日に95歳で亡くなられていたことを知った。

93歳ころに横浜のカルチャーセンターでのWEB講義に参加させて頂いていた。その後転職したこともあり、手元不如意も加えて講義への参加は途絶えていたが、当時でも御年93歳、講義の端々で例えば三島由紀夫と同時代人でらっしゃることなどを感じるにつけ、自身も日本での文学的潮流の一端に触れることができた気がした。

ルドルフ・シュタイナーの思想の日本への導入は、例えばユングを日本で紹介するときに河合隼雄氏がわかりやすい「箱庭理論」などから始めたように、これも歯ごたえの柔らかい「シュタイナー教育」などから導入されているのと状況は似ているだろう。

やはりいわゆる西洋におけるキリスト教をめぐる文化面での(信者かどうかにはかかわらず、環境としての)状況と、日本での状況は全く違っているわけであり、基本理解や情報入手や把握が日本ではほぼ全くと言っていいくらい望めないであろう。

私の場合も、いわゆる「スピリチュアル」と言われる文化との相似感もあり、これまであまりきちんと対峙してこなかったのである。

私はここではよく書いているが、父親は水戸系の神道、母親はクリスチャン、母方の祖父は積極的に無宗教、という感じでここ仏教国日本で育ち、クリスマスにはプレゼントを貰い、みうらじゅんの見仏にかぶれ古仏を巡り、自身は幼児洗礼を受けているのでなんというかクリスチャンな気もしている(が別に教会にはいかない)、という複雑な宗教環境にある(まあ、幼少時は寺で拝め、とはいわれなかったが)。

なんとなく、”一般の”日本人よりはキリスト教寄りな感覚はあるが、別に聖書を読むわけではなく、すこし身近である、というだけである。

見者でもあったシュターナーの著作の多くを、高橋先生は訳された。先生が真摯にシュタイナーに向かわれ、翻訳された、ということは、シュターナー自身に加え、”元慶応教授”という肩書(肩書で判断してしまうのはあまりよくはないのだろうが)からも、シュターナーの著書を手に取るときの私のハードルを下げていた気がする。

私はタロット好きであったり、異端カタリ派やグノーシス思想が好きで、絵を描けば基本幻獣や幻想系ばかり、という嗜好からも、いわゆるスピリチュアル、という分野とは近くにいる気がするのだが、そこに”強制感”があったり”宗教臭”がするととたんに嫌になる、という面もある。

またたぶん一般の女性より、占いには遠くにいる。まあ、近くに行くとはまってしまいそうな怖さでもって遠巻きに見ている感じだ。

シュタイナーの著作は、そこに大きく切り込んでくる内容であった。だが、それを講義で語られる高橋先生の言葉を聞いていると、これは本当にそうかもなあ、という気がしてくるのであった。

そんな高橋先生の著作から、ドイツ神秘主義の世界を教えてもらい、私の中の精神世界(魂、といってもいいかもしれない)が広がったという感がある。

高橋先生は、前日まで講義を行われ、ホテルの一室で一片の書類を前に坐しておなくなりになっていたという。

その情報を得て、まさに先生は次のステージにかろやかに移られたのであろう、と思った。直接お目にかかる機会がなく残念であったが、WEBであってもそのお声をリアルタイムにお受けできたことは、本当に貴重で大切な時間であった。

おなじく私の中では大切な存在である池田晶子さんが、池田さんご自身が大切に思ってらして晩年お世話されたともいう埴谷雄高に関し論じた処女出版である「最後からひとりめの読者による埴谷雄高論」の同名論考の最後の部分から以下に引く。

池田さんが埴谷さんの仕事と生き方を論じ総括された内容は、同じくシュタイナー思想を通じてご自身の理想を提示され語られた高橋巖先生の姿と、どこか似ている気がするのである。

誠実な者たちはみな、自身へと立ち還ることによってこそ、歴史に立つ。個に徹することによってのみ普遍を手に入れる。歴史を展いてきたのはいつもそのような「無私の精神」だったのだ。そして、「この世に人間しかいない」その限り、我々の歴史もまた、いつも我々の掌中にある。そのとき、倫理的なものへの直観、自分以外の者へと閃く想像力こそが、唯一のその導き手となる。「死霊」の「最終的」な証明は、無限の彼方にあるとしても、貫かれていたその現在性は、リレーの後継者たちが、それぞれの現在において証明してゆくに違いない。

池田晶子 最後からひとりめの読者による埴谷雄高論 P.74-75
(一部傍点は割愛しております)



(標題も池田さんが引かれた埴谷雄高の言葉です。星とは全現存在、時は瞬間と過去と未来を統べるもの、とすれば、その間に存在するのが真実でしょう。そこを際限なく掘って潜ってゆくことこそがやるべきことだ、と埴谷さんは思われ、池田さんも思われ、おそらくシュターナーや高橋先生も思われていたのではないか。そんなことを考えました。)





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