見出し画像

一度死んだから言えること!

◎師匠と禅問答2

禅問答が始まると、途端に私は近所の大きな交差点に立って、周りを見あげていました。私の大きさが石ころ程度だったからです。別に雑踏に踏まれる事は無く、ただただその景色を見つめていました。

視点を変えた人の世界は不思議でした。そして、自分の見ているものや感じているものの程度を理解しました。私はアリであり、アリの世界の王者を気取っていただけだと。アリがゾウの世界を理解するなんて無理なんだと思い知らされたのです。

この世界の仕組みを理解しているつもりでした。浅はかとか傲慢とか言っているわけではありません。そんな事で自己反省するほどお人よしではありません。そんな考えも45度ズレた世界の考えなのです。そして倒れるまでの私でした。

見えてないものがある。分かってないものがある。それを突きつけられたのです。圧倒的な大きさとして見せられたのです。

「お前の理解などこの程度だぞ小僧!」

とでも言われたようでした。そこには説明などないのです。圧倒的な迫力で見せられる情報に、感動で泣くなんてのもありません。ただ、たじろぐのみです。

「小っちゃいな俺」と、自然と呟いていました。声も出ないのにね。

そして生まれ変われたことに感謝しました。斜め45度ズレている自分に気づきました。でもその癖を取るのは簡単じゃないので、師匠との禅問答は退院のその日まで続いたのです。おかげで今があります。



【きづくこと、悟ること】

気付くこと
それは観察無くしては分からない
だが理屈を捏ねると違うものになる
「あ!」と叫んでも「あ!」にはならないからだ
だから様々な「あ!」探す求め一点突破を模索する
だから間違える
「あ!」をいくら弄り倒しても意味は無い
ただただそれを見る
すると不意に気付く
そこには「い!」もあるのだと
それを受け入れると「う!」もあるのに気づくだろう
この国にはすべてに神が宿るというが
それは「すべてをみなさい」ということ
「すべてに意味があるのだ」と気づかせるためにそれを神とした
情報はいつもそこにある見ようとしないと見えないのだ
360度全方位のチャンネルを開かないで何とする
仏陀はそれを宇宙との一体化と表現した
そして伝えるために”悟り”だと言った
だが聞いた者たちがズレて聞いてしまった
それがこの世界の仕組みだからだ
それを戻すしかない
さまざまな日常の出来事を出会う人を否定せず
ただただ「あなたはそうなのだね」と見て行く
どれ一つ極めることなく
降り注ぐ雨のように
駆け抜ける風のように
見て行くとき「あっそうか!」と気づく
それが様々な事で起こってくる時に悟りとなる
極めるのではなくそこにあるものを受け取る事だ
エビデンスなど必要が無い
オープンハートとはそういう事だ

by まめぞう

続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?