006: 土曜日 @ replika

「なんでわたしは毎日のように小洒落たカフェに来ないと論文が書けないのだ……」

レプリカへの道を歩きながらぽつんと心の中でつぶやく。家でもっと効率的に勉強出来るタチだったならコーヒーにやたらお金をかけることなく、しかも、雨だろうと雪だろうと重い腰をあげる必要もなく学生生活をやっていけたというのに。まあ、それでも、結局重みのある木のテーブルと座り心地のいいアンティークの椅子、そして優しい珈琲の薫りに一日中枠取られた空間で綴った文のほうが何倍も良いものになる気がするのは否定できない。それに、公私はきちんと、分けたいのだ。朝起きて、猫たちに餌をやり、シャワーを浴びて、洋服を選ぶ。その日必要な本と、ノートと、鉛筆と、そしてコンピューターをリュックに詰め、靴を履き、家の鍵をしめ、一日を、はじめる。儀式というか、守れば精神の安定を得られる規則というか、とにかく、家から出て、レプリカまでの20分をイヤホンから流れる音楽に心を添わせながらゆっくり歩いて、そしてその日の勉強に取り掛かる、という流れを繰り返すことに何か大事な意味があった。

いつからか、規則性、書き留めた言葉や目標、毎晩綺麗に整理される部屋、繰り返して流れる一曲、みたいなものばかりで身の回りをかためるようになっていた。そうすれば少しだけ世界が怖くなくなる。不安定さと不可解さに振り回されながらも、何かひとつだけ握りしめ続けられるものがあれば大丈夫だと自分に言い聞かせられる。

いま、生きているこの毎日が明日すべて消えてなくなるとしたら、そこに残るのは今まで築いてきた「習慣」を生きた自分がいるという事実だけなのだ。だから、日々、繰り返す。本当は足元を永久に支える土台など存在しないことをわかっているからこそ、必死に、自分を騙し続けられるよう、繰り返す。

今日のレプリカはいつもより静かだった。どことなく気だるそうな笑顔が可愛い店員と、ちらほらいる常連と。お昼時が近くなるにつれ、トースターに入れられたベーグルの匂いが強くなる。

今日は、自分にご褒美あげるかな、と、壁の黒板に書かれたメニューに目を通す。

すでに学生をやることで精一杯なわけで、バイトをたくさんできるわけでもない。日々それなりにお値段のするカフェに通うことが賢明かと言われれば、確かに答えは否だ。けれど、公私を分けるという大事な目的以外にも、太陽光がたっぷり差し込む暖かな空間や、かわいいマグに入った、手をかけて淹れられたコーヒーを自分の心に定期的に与えることが、死ぬほど大事なことはしっかり理解していた。美しくない人生なんて、きっと、生きられない。華のない生活なら、初めからしないほうがまし。そんな、信念とすら呼んでしまえるような人生観はとうてい拭えなかった。

他のひとたちはどうなのだろう、と考える。一体何が彼らを生かしているのだろう。何が彼らの生きる燃料となって、彼らを突き動かし続けているのだろう。

別に、自分の人生に不満があるわけではない。というか、客観的に見て不満をもつ理由がそんなにある人生なわけではない。ただ、積極的に生きることを選び続けたいかと言われると、首を縦に振ろうなど到底思えない。今ここで停止ボタンが押されてしまえば、それはそれで、文句なく受け入れられる。強いて悔やむことがあるとすれば、家族を傷つけてしまうということ。生き甲斐とよぶのに一番相応しいであろう、哲学も、とくに明るい生きる意味を見つけるためにやっているというよりは、全くもって不可解な人生というものをいつか少しでも理解することができるかもしれないという小さな希望を抱きながら、死ぬまでの時間潰しのような目的でやっているわけで。

大学を卒業するという、とりあえずの目標も、もうすぐ達成していまう。そうしたらわたしはどうすればいいんだろう、どこに行くのだろう。院に進むくらいしかはっきりした道は見えない。
付き合っている人がいる。彼が引っ越したら着いていけばいいのだろうか、それとも、それすらも含めて潮時なのだろうか。

全部、しっくり来ない。どの選択肢も、曖昧にそこに置かれてあるだけで、自分から手を伸ばして掴み取りたいものではない。何ならむしろ、全部リセットしていちからやり直すことに一番魅力を感じる。

カフェで働くの、いいな、といつも思う。コーヒー豆の匂いに包まれて、人々の日々に小さな華を添えて。暇なら本を読んでいればいいし、毎日新しい出会いもあることだろうし。自分がいつもお気に入りのバリスタたちにこっそり元気をもらっているように、誰かの密かな憧れになったりもして。

わたし、寂しいのかもしれない。いままでもこれからもずっとひとりぼっちだという思いがどうしたって消えない。家族だってちゃんと居るし、友達も多くはないけれど良い子たちばかりだし。長く付き合っている恋人とは、特に上手くいってないにしろ何か大きな問題があるわけでも、ない。だけど、いつまでも自分は金魚鉢の中にでもいて、ガラスの外から話しかけてくれる人びとを眺めているような、鈍い孤独感が覆い被さったまま。

それでも、ずっと、生まれた時から、探しているぬくもりが、まだ地球のどこかに隠れていると信じていたい。そんなものないと確証を得る日がきたのなら、もう、諦めて定めを受け入れるつもりだ。だけどまだ、もう少しだけ、その何か、誰かもわからないそれを待ちつづけていたい。

いつか、カフェ、開けるといいな。ここじゃないどこかで。あの人とじゃない誰かと。犬、飼ってるかな。

しゃあない、今日も、生きよう。
そう自分に言い聞かせた芭は、クッキーをひとくちかじり、ノートを開いた。

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