004: 木曜日 @ replika

アメリカーノはいつだって牛乳をサイドに頼む。すると、レプリカでは小さなピッチャーに入れた、ふかふかとしてあたたかい牛乳をちょこんとマグの横に添えてくれる。

コーヒーの宇宙のまんなかにくるくると濁った円を描く。星が溶けていく。それを見つめていると今日もやれる、と何故かこみ上げるやる気。

珠の小さなルールであった。日々のしあわせなんて、人生の意味合いなんて、そんな小さなルールの積み重ねで自分で創ってゆくものだ。お気に入りの紺色のセーターだって、古着屋で見つけた茶色のブーツだって、筆箱のなかにあつめたパステルいろの蛍光マーカーたちだって、みんな朝起きて夜ベッドで丸くなるまでを彩る小さな秘密のアイテム。

カフェインが細胞に、と言うか主に脳にじいん、と染み渡るのを噛み締めながら、秋の冷たさの真ん中に建てた温かな基地のようなものを思い浮かべる。蝋燭に火を灯した部屋で毛布に隠れながらいつかの誰かの優しさを思い出す音楽を流す夜。両手に包んだマグから漂う懐かしいような悲しいような香りだけに意識を集中させて、外の世界のことなんて全て忘れることが許される、そんな空間。この季節独特のもの悲しさと、味覚と嗅覚から突然呼び起こされたこのなんとも言えぬ感情に飲み込まれるまま珠はそっと目を閉じた。

今日もやれる。もういちど、そう、心の中で呟いた。

しゃきっとした気持ちで黒革の表紙のノートをくるっと開いて、今日の日付を書く。レプリカで始まるいちにちは大抵いい日になるのだ。雪がいまにも降りだしそうな、11月の真ん中の、木曜日。今日までの四日間を背負って、また日曜日にリセットされるまでの三日間をこれから歩く。「特別」なことは起こらなかった週はじめ、そして、「特別」なことはきっとこの週末にも起こらない。そんな、穏やかさを大切におもう。心の振り幅をできるだけ小さくして生きている方が、ささいな美しさに感謝できるし。今日やるべきことを、万年筆で細かく綴るとインクと一緒に滲み出る安心感だとか。ふと目線を上げた先に座っている人が誰かからのメッセージを受け取ってとても嬉しそうな笑顔をこぼした瞬間を目撃できたことだとか。

そもそも、「特別」って、なんなんだ。幸せだとか成功だとか、大きなイベントが起こらなければつまらないみたいな概念が漂う世の中は息が詰まって生きづらい。きっと無限にひろがっている宇宙の隅っこの小さな惑星で、なんの意味も為さない喧騒で自分たちを取り巻いて自己満足に浸るだけのわたしたちなのだから。それなりに自分たちの存在の小ささと無意味さを抱きしめて、その中に愛だとか感謝だけを見つめ続けていればいいじゃないか。

珠の頭の中はいつもこうだった。考え出したら、くるくるくるくる、渦がひろがり続ける。止まらない。とくに気にしたこともない珠だったが、強いて問題点を挙げるとしたなら、そんな珠の思考についてきてくれる友達はそう多くはないということだった。

多くはない、だけで、いない、訳ではない。からん、と扉の開く音に顔をあげると、逆光の中でもわかる親友の輪郭があった。親友、というか、長い人生の中の今の一点を分かち合って、過去も未来も気にしたりせず、だから約束を無理して作ったりもせず、ただただ「今」そうしたいから、という理由でお互いと向き合える貴重な相手。偶然を一緒に愛して感謝して、きっと人生の次の段階に進む時は笑顔で手を振り合ったあと背を向けて別々の道を潔く歩き出せるともだち。

「待った?何書いてるの?天気良くて嬉しいねえ、ここまで歩くのが楽しかった!」珠を抱きしめながら、いつも通り興奮を隠せない彼女。大人になんてなりたくないなあ、といつかふたりで足早に過ぎゆく青春をそのまま見送ることへの名残惜しさを語り合ったことがあった。

「わたし27歳までには犬と暮らしてると思うの。」
「ねえそれ普通の人は何歳までには子どもがほしい、って言うとこだよ。」
「それはいらないや、犬がいい。」
4年後くらいの話を、まるでとても遠い未来かのように話したっけ。想像もつかない、今とは全く関係のない、未来。それでもいつかわたしたちは27歳になる。彼女はきっとどこかで犬と暮らしているし、わたしは看護師として働いてでもいる。そして27歳も風のように通り過ぎていく。で、人生は、たぶん、続く。
「大人になるとさ、もっと何事も理解して飲み込めるのかな。生きてゆく意味だとか、愛ってなんだとか、使命みたいなものがそれぞれあるかどうか、とか。答えを見つけて、混沌のまん中の静けさに落ち着けるのなら大人になってもいいかな。」
「そもそも大人になるってなんだ、って話だよね。」
「10年後くらいに答え合わせしようね、お互いどこに住んでるかわからんけど。」

答え合わせ、本当にするかしないかは別として、もう一生戻ってこない大学生のいまを、失くしてから気づいたとか言わないですむように大事に、ていねいに、一緒に過ごしてくれる友人がいることが有り難かった。

ぱたん、とノートを閉じ、今日はなんの話をしよう、と友人のまん丸な栗色の瞳を覗き込む。



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