ちがうこぶし

ごはんの炊けるにおいが妙にきもちわるい

なんかやたら眠い

そういえば生理来てないな

浮気性の彼と別れたあとだった。苦手な父親と産婦人科に行った。妊娠4ヶ月だった。あたしは彼の子供が産める、と安易に思い喜んでいた。

彼があたしの家に来て父親と話していた。すでに別れていたから、彼が何を話すかはわからなかった。でも2年半も付き合ったし、彼だって散々遊んでたし、だからあたしは寂しくて、元カレと浮気しただけだし、きっと彼はこれでよりを戻してくれる。あたしはしおらしく下を向き、座って聞いていた。

母が亡くなってから父親とはうまく付き合えず、真面目で厳格で仕事ばっかりしていて、あたしのいうことなんてひとつも理解してくれないと思っていた。ただ、あたしが高校へ行かないといった時も一生懸命あたしを説得し、あたしが高校やめると言ったときも頑なに反対していたけど、専門学校にいくために家を探し、学費を払い応援してくれた。

「この子は妊娠4ヶ月みたいだけど、君はどうするつもりでいるんだ」

正座をして相手を見て父が言った。

「責任はとれません」

彼はそう言った。あたしは一瞬落胆したが、下をむいていたあたしの視線の先にこぶしを強く握りしめる父の手が見えた。

震えている。

父の顔を見ると平静を装っていた。

「この子は産みたいって言っているけど、君はその気はないっていうことなんだね?」

父はこぶしを震わせたまま冷静に彼にきいた

「はい。責任はとれません」

もうやめて。あたしはそう思った。父親が傷ついている。

正座した足の上にぐっとこぶしを押し当て父は殴りたいのをきっと我慢していたんだろう。つらかった。あたしのせいだ。

そう、   思った。

「わかった。こちらでどうにかする」

そう言って彼を帰した。

悩める猶予はなかった。もう5ヶ月になろうとしていた。

父親にこれ以上心配をかけたくなかった。おろすことにした。

子宮口を無理やり広げなければならない。その処置は激痛だった。

死ぬかと思って大声で泣いて暴れておさえつけられながら処置した。

翌日全身麻酔で赤ちゃんをおろした。麻酔のせいでずっと変なことを言っていて、付き添っていた姉はそんなあたしが怖くて泣いていた。

入院していたから死産届と火葬を姉がしてくれた。

特に何も引きずることはなかった。

でもこの頃のあたしは『誰かに捨てられる』こと以外への悲しみは喪失してしまっていたように思う。それが自分を死にたいほどの恐怖に感じ、その衝動は居ても立っても居られないのだ。

これがいわゆるメンヘラなんだろう。当時はそういう言葉がなく、ただの頭おかしい人って言われてた。

殴られても、性奴隷のようにされても、浮気されても、二股かけられても、酷いことばを言われても、

『それでも一緒にいて』

その気持ちっていったい何なんだろう。あの苦しみはどこから来るんだろう。愛してくれていると錯覚していることで満たされる何かへの執着。

簡単にメンヘラっていうけど、苦しんだよ

からだじゅうあざだらけになるまで日常的に殴られても、顔を下半身におしあてられるだけの性でも、ちっとも愛されてないと本当はわかっていても、それでも離れられない異常な恐怖で自分で自分を傷つけるリストカットやいろんな痛みの感覚をすべて麻痺させるほど、苦しんだよ


あたしはまたすぐその悲しみを埋めるように中学の時のあの彼を

愛してることにした

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