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すみっこ、はじっこ、すきまが好き。

私たちの世代は「食べ物を粗末にしちゃいけません」という躾が刷り込まれている最終世代ではないかと思う。自分自身がそうしつけられたかどうかは定かではないけれど、粗末にする=食べ物を残す ということには、少なからず罪悪感がある。

さらに私の場合、もうひとつの意味でも粗末にはしていないと思う。それは「すみっこ、はじっこ、すきま」まで食べたいという欲望。食べ物って細かい部分にいけばいくほど、おいしく感じられると思っているのだ。

たとえば、カステラ。ナイフで切った後にまず食べたくなるのが、あまいハチミツの香りがする黄色い本体ではなく、ざらめと焦げめがくっついたあの紙だったりする。これを歯でこそげ取る至福。

カットしたケーキ。周囲にはセロハンが巻かれていて、それを手ではがし、くっついている生クリームを舌で舐め取る幸福。

アイスクリーム。フタを開けると芳しいバニラの香り。すぐにでもスプーンを突っ込みたいところだが、もはや用ナシに思えるフタを改めて見ると、その中心部に申し訳なさそうにへばりついているアイスクリーム。これをスプーンでかき集めて食べる恍惚。

行儀が悪いことこのうえないが、こういう部分は確実においしい。もちろん、人前ではできないが。

さらに、ご飯のおかずでもこういう部分は存在する。

たとえば、肉じゃがの残り。前日のメインディッシュという役割を終えて、小鉢やタッパーに移されて冷蔵庫に入っている。これが、次の日の飯の友・・・というよりも「陰の主役」となる。

角がピンと立った芋はひとつも見当たらず、玉ねぎと一緒にグズグズに溶けて、煮汁と合わさってピューレ状になっている。ココが「すきま」だと私は勝手に思っている。

できたての肉じゃがはご飯にかけて食べるべきものではないのに、同じモノが1日経過するだけで、なぜこんなにご飯に合うんだ! と、前日とは違った感動を味わえる至福。

麻婆豆腐の残りも同じ。できるだけ、豆腐がグズグズのバラバラになっていればいるほど旨い。残り麻婆豆腐の「すきま」は、トロミの片栗粉が固まった部分や、豆腐と一緒くたになった汁の部分だ。この片栗粉集中地帯に遭遇した時や、ひき肉のカタマリをかみしめたりした時には、何だかカタチを変えた新たな再開という雰囲気でココロ躍る。これだって前日のメインのおかずで、前の日の方がおいしかったはずなのに。

そんなわけで、すみっこ、はじっこ、すきままで味わっている私。でもこれは「もったいないから」「食べ物を粗末にしちゃいけないから」という想いからではない。どちらかというと、いや確実に「ココが好きだから」なのだ。あまり声を大にしては言えないけれど。そう、結果的に、ある意味粗末にしてないわけだ。

美しく、明らかにおいしい部分を知っているのに、細かくて、なおかつおいしい部分を探求する。そして思わぬ発見や出合いがあると、美しい本体を口にした時以上の感動がある・・・はずだと思う。

食べ物って、すみっこ、はじっこ、すきま、そんなところに実はおいしいエッセンスが凝縮しているのかもしれない。

・・・なんて、ただ単に私の育ちが粗末なだけかもしれないけれど。


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