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込み入った話をしよう

最近、あまり話したことのない人と一対一で話すことが多くて嬉しかった。
大人数で仲良くなるのが苦手なぶん、2人きりで深め・重めの話をすることが好きで、仲良くなるにはそれが大事だと思っているタチだ。
カフェや居酒屋で、魂の交換をするように、言葉を渡しては受け取ってを繰り返す。その時間って優しくて、まるで天国だなと思う時もある。

良い友人関係って何だろうね。
ある友達は、喧嘩できてこそ親友だと言っていた。(その子と喧嘩したことない私は少ししょげたりした記憶がある。)
それでいうと、そもそも私は喧嘩ができない。でも論じ合うことは好きだ。

人との付き合い方を振り返ると、最近は昔と比べて、もっと自分の居心地の良さを優先するようになった。気が合う、とか、価値観がいっしょ、とか。世間的にも「私らしく」「無理なく」な流れが主になってきている気がする。
それは心の負担が少なく生きやすい一方で、近しい世界の中にいてると展開されない、新しい色々を知る可能性も捨てている、ということだろう。私は新しさを求める人間だから、いろんな人と関わり続けたいと思うけど、元々の内気な性格と無駄に消耗する体力のせいでガンガン人と会い続けるのもちょっと難しくてもどかしい。

最近ズレを感じることは増えた。昔ならあうんのタイミングで笑い合えた子でも、「なんかこの発言引っ掛かるな」とか「すごくおかしく話すけどわたしはそれ笑えないな」とか、感じたことのなかった違和感を抱くようになった。
そりゃあ、人も私も日々変わっていくわけだから当然で。でも、その時心が整っていないと「この子なんかだめになったな」みたいな勝手な蔑みとかしてしまう。良くない…。どんな時だって尊敬は忘れたくない。


何にせよ、損得も勝ち負けもなく、まっすぐに相手と向き合って仲良くなりたい。それって体力使うし時間もかかる。でも、やっぱり楽しい。
それに、何度も会えなくても、元気でありますようにと祈れる相手が多いのは幸せだなと思う。

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
ペトロの手紙一 1:22  (聖書 新共同訳)

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